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黒猫、萌ゑしは書生

17.深想

深く想う先にあるものは純粋な思慕


「ふう……流石に山の散策は大変だな。」
「そうだな。今日は随分歩いた。」
本日の踏査は桜田山。街と比べると、どうしても運動量が多くなる。
ライドウは修練を積んだ身ではあるが、デビルサマナーとて生身の人間。それなりに疲労はするのだが、人との接触会話が苦手な彼の書生としては、こういった踏査のほうがずっと楽だったりするが口に出しては言わない。
だが、それは猫も気づいていた。ふう、と息を吐いてライドウが口を開く。
「足が棒になる、というのはこういう事を指すんだろうな。」
「ふふっ。運動不足か、七綺?」
「そ、そんなことはない。ただ、ほら、段差があったりするから。それで、少し疲れた、というか。」
「ほーう? ……ま、そういうことにしといてやろう。」
「ゴウト!」
「ははっ!」
黒猫は軽口や相槌を打ちつつ、話の最中そっと見上げてライドウの横顔を一瞥する。
幾らか汗を掻いているようだが、「大変だった」「疲れた」などという割に、疲労の色は薄い。
それはそれで見事――だが、街での行動よりも生き生きしている雰囲気を漂わせているのは、頂けない。
せめて押し隠して欲しいものだ、と思うが、人目の無いことが彼を無防備にさせているのだろう。

――お前はまだ人が苦手か、七綺?
長い睫を僅かに伏せて周囲を見遣る書生の真名を心の中で呟いて、黒猫は目を細める。
学帽の庇の下、他に人が居ないせいか覗く眼差しは何処かあどけない。

ああ、これこそが彼の青年の本当の姿なのだ。
人が苦手で拒絶しているものの、心を許した相手には胸襟を開いて受け入れる。
戦いに於いては申し分が無いが、けれどそこに人との干渉が入ると途端に弱く不器用になる青年。
どうして人が苦手なのだろう、と常々不思議に思っているが、彼は過去を語ることを嫌がっているので無理強いも出来ず、未だ秘密は秘密のまま。
人が苦手な、人。
だが彼は解っているのだろうか?

「――お前も人なんだぞ、七綺。」
そして……猫は緑瞳を細め、小さく呟く。
『そして俺も、かつては――』
だが、その先の言葉は形にはしなかった。
この身、この存在。
思うことすらも罪となるだろう。

(それに、今の俺は――猫だ。)
唯の猫。獣の形。
業斗童子は人ではない。罪の証し。人の形を許されていない存在だからこそ、この体で居るのだ。
しかし、文句は言うまい。ああ、不平など出るものか。
何故ならば、その御蔭でこうして彼の書生に距離も置かれず、また警戒もされずに接してもらえるのだから。

ああ、そうだ。
この姿で居るからこそ、ライドウに――七綺に、触れることが出来て。

(……それを忘れるなよ――業斗童子?)
ゴウトは気づかれぬ秘密に苦笑しつつ、ライドウに抱かれた己にひとまず満足して帰路に着く。


◇ ◇ ◇


事務社へ戻る頃には、日もすっかり傾いていた。窓際から差す黄昏の光が眩しい。
ライドウは外套を脱いで簡単に砂埃を払うと、窓辺にいるゴウトの元へ近づいて、その傍らに洗面器を置いた。
黒猫を見つめ、微笑みかける。
「ゴウト。足湯を用意したから、良かったら使うといい。」
「おう、済まんな。……む。」
そう頷いたものの、ゴウトは水の張られた洗面器を見るなり言葉に詰まってしまう。ライドウの好意に反射的に応じたものの、自分が何であるかを思い出したのだ。
――大概の猫は水気を嫌う。
この存在、仮初ではあるがそれでも紛うことなき猫である。

ああ、我輩は猫である。
そんな冗談を呟いて薄く笑ってしまった自分が、少し情けない。
ゴウトの戸惑い――葛藤といってもいい――に、気づいたのだろう。ライドウが、苦笑しながら声を掛けてきた。
「俺が足を拭いたほうが良いかな?」
「おう、それは――」
名案だ、と受け入れようとして、ゴウトはまたもや言葉を止めた。本日の踏査の場所、その距離を思い出したのである。
首を振り、言い直した。
「――いや。いい。七綺、お前も疲れているだろう?気を遣うな。足くらい、自分で洗える。」
「そうか?……ん、分かった。」
ライドウは頷くも、それでも苦笑を滲ませて呟いた。
「……ゴウトも、風呂に入ることが出来たら良いのに。」
「……無茶を言うな。」
ふん、と素っ気無く答えてヒゲを揺らし、黒猫は内心で言い返す。
まるで口にすればそれが叶うかのような調子で言ってくれるな。
俺が水に嫌気が無ければ良いとお前は言うが、それはどういう意味で言っているんだ?
この猫に、共に湯浴みをしようと言いたいのか、言っているのか。
ああ、湯煙の中のお前の肢体は、さぞ美麗なことだろう。
霞むことなく見えるだろう、お前自身が。打ち解けてきたのもあってか学帽を脱いでくれるようになったのもあって、入浴の際はそれこそ一切隠すものが無い姿はどこまでも無防備だろう。
湯の中、その水を通して触れた時、どうなるのか。

……あまり俺を試してくれるな、我が雛鳥。

(――下らん妄想はココまでだ、”業斗童子”。)
生じた胸の痛みを苦笑で誤魔化して、ゴウトは己の役割へと戻った。普段どおりの相棒として少し表情を引き締めると、冗談を交えて会話を続ける。
「……まあ、そうだな。水が何かするわけでは無いのだし、少々の我慢をすればどうにかなるやも……ん?」
ふと顔を上げたゴウトが、何かに気づいたようだった。
「どうした?」
「七綺。帽子を脱いで、此方へ来い。」
「え? 急に、何を」
「いいから。こっちへ来るんだ。」
「……? わ、分かった。」
突然の招請にライドウは不思議そうな顔をしたが、それでもゴウトに警戒は抱かず、言われるがまま学帽を脱ぐと素直に側へ寄ってきた。

「ゴウト。俺が何か――」
「そのまま前を向いていろ。」
「前? ゴウト、一体なに、を――……わっ!」
ライドウが肩越しに振り向きかける――が、不意に項に触れたものがあった。
「――っ!? ゴ、ゴウト? な、に……っ!」
上げかけた悲鳴を寸前で止めることが出来たのは、項に触れたものが黒猫の前足だと気づいたからだ。
爪は見事に引っ込められていたので、痛みは無い。
ただ、困ったことに非常にくすぐったいので、堪らずライドウが逃れる為に身を捩ろうとすれば、ぴしりと声。
「――七綺。動くな。」
「す、すまない……で、でもゴウト。その、何をしているのか教えてくれると、助か、る……っ。」
デビルサマナーたる精神力で以ってどうにか耐えながら質問を投げれば、黒猫は一言。
「髪が乱れている。」
「え? あ、ああ……異界に寄って、悪魔と対峙したせいだな。」
「……。」
沈黙。はて自分は何か拙いことを言ったのか?
「あの? ゴウ――」

はむっ。

「――ト!? え!? あ」
かみかみかみ。
「ゴ、ゴウトッ!?」
今度は、どうにも予測が付かなかった。後頭部を引っ張られる感覚に、堪らずライドウが背後を振り返ろうとする。
だが――……。

「動くな、と言っているだろう。」
ゴウトが前足でしっかと頭部を抱え込んでいる為に、その行動は叶わなかった。
それでも、髪の毛を啄ばまれている、もしくは舐められているのだと感覚で判ったライドウは、ぎょっとする。
「なに……何を――」
黒猫の行動が理解できず戸惑うライドウ――七綺に、ゴウトは普通に落ち着いた声で言った。

「ただの毛繕いだ。だから、動くな。」
「毛繕……いやっ、でもっ! き、汚いから!」
「莫迦な。俺の七綺が汚いことなどあるか。」
きっぱりと否定された。しかも、よく分からない理由で。
「それよりも七綺、暴れるな。お前は頭突きで俺の鼻を潰したいのか?」
「そんな!」
「だったら大人しくしていろ。」
「い、いや……気遣ってくれるのは嬉しい、んだ、けど……! ほら、俺、もう直ぐに風呂に入るし!」
「俺が気になるんだ。遠慮するな。」
遠慮とかそういう問題だろうか?
とかく意見は一蹴され、動揺している書生に構わず黒猫は黙々と毛繕い?を続ける。

かみかみ。
かじかじ。
項をくすぐる髭が、項に触れるひんやりとした鼻先が、こそばゆい。

「ふ、っ……、ゴ、ウト……く、くすぐったい……!」
「ははっ。なに、直ぐに慣れるさ。」
「な、慣れる……の、か……?」
七綺は首を竦め、戯れめいたゴウトの行為にひたすら耐える。
もっとも、逃げ口が無いわけではない。
ゴウトは猫で、七綺は人である。故に、七綺が人として抵抗すれば簡単に抜け出せるのだ。
だが、七綺は耐えることを選択した。
何故か。

「七綺の髪は、短いながらも綺麗だな。」
耳元で囁くようにして話しかける黒猫の声が、うっとりしている。
「流石は十四代目、いや俺の七綺。実に誇らしい。」
髪を食み、足先で弄ぶ仕草のどれもが柔らかく、まるで愛撫のようでいて。
愛しい相棒だと、黒猫は言う。
優しく、何処か熱を帯びた声で。
それが七綺は嬉しいのだ。
ああ、嬉しくならない筈が無い。肩越し、そっと様子を窺えば目を細めて喉を鳴らす黒猫の姿が見えるのだから。

「ゴウト。俺の毛繕いが済んだら、次はゴウトの足を洗おう。」
「む? ああ、そういえば七綺が用意してくれた湯がすっかり冷めてしまったな。」
「構わないさ。また沸かせば良い。」
「何なら、一緒に――いや、先ずは湯に慣れてからだな。七綺、洗面器ではあるが、俺は頑張るからな。」
「そうか。じゃあ、いつか一緒に湯浴みが出来るのかな。」
「……ま、まあ、期待はするな。」
「ふふっ。」
そうして七綺はゴウトからの毛繕いを、ゴウトは七綺からの洗浄を享受する。
静かな室内に、今は一人と一匹。

「……また異界化してるし。だから何でいつもいつも、俺が帰宅して早々に見せ付けて来るんだあの子たちは!」
事務社、戸口の影で。
帰宅して早々に甘ったるい光景を見せ付けられる羽目になった大人がひとり、口惜しそうに呟いている。
その男の髪の毛も、何処となく猫を思わせるほどの癖っ毛なのだが――生憎と、黒猫が気になるのは己が書生ただ一人。
鳴海が主としてその存在を気づかれるのには、室内の様子を見る限りではもう少し時間が掛かりそうであった。
敬意から親愛へと移り行く彼らが関係、その絆。
其処から先があるのかどうかは知らない。

だがもしも。
もしも、その先があるならば。

その関係の名は、何になる――?