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黒猫、萌ゑしは書生

18.水揺

それは水面が如く揺らめいて


「ゴウト、今日も遠方の踏査に付き合わせて済まなかった。」
いつもの踏査、その帰り道。
常日頃、人目が苦手な書生は、この人気の無い道中では実に柔軟な態度になり、腕の中に抱えた黒猫に話しかけた。
黒猫、ゴウトは彼の弱点など気にしない。緑色の瞳を穏やかに細め、笑いながら応じる。
「ははっ、気にするな。それに、俺にとってはこれしきの距離など大したことじゃない。」
「……そういうものか?」
「俺の言うことが信じられないと?」
「そ、そんな訳じゃ」
「ふふっ。そんな顔をするな。何も咎めているんじゃないさ。」
目を伏せたライドウの胸にこつりと頭をぶつけて慰め、ゴウトは言い繋ぐ。
「言っておくがな、七綺。こんな距離は本当に大したことじゃないんだぞ。第一、葛葉として此処に来た頃などは、それこそ帝都中を刻限ぎりぎりまで歩き回ったじゃないか。」
「……う。」
ゴウトの言葉に、ライドウが顔を赤くする。
何せこの書生、対人が苦手なばかりか、そもそも人の多い場所からして近づこうとしなかったのでなかなか地理を覚えることが出来ず、何度か迷ったことがあるのだ。

しかしそれも昔の話。
今はもう、迷うことは無い。
「何をそう照れることがあるんだ。ははっ。」
雛鳥は成長し、一人前のデビルサマナーとなったが、それでも、ゴウトにとっては今も昔もそう変わらない。……変わってなどいやしない。
「……全く。お前は何時までも初々しいな。」
こういうところは本当に変わらないで欲しいと、切に願う。
ゴウトはククッと笑い、ライドウの胸元に頭を擦りつけながら言ってやる。
「お前は葛葉ライドウとしてよくやっているよ、七綺。だが、あまり前を行き過ぎるな。時には立ち止まり、休むことも必要なんだからな。」
「……、それは説教か、ゴウト?」
頭上でライドウが答える。微かに不満めいた声を混じらせて。
「休息は適度にとっている、と思うんだけれど。」
「その言質が正しければいいがな。どうも今までの経験から、お前は己を殺して他に気を遣いすぎる傾向が……? おい。聞いているのか、七綺。」
ゴウトの意識を散逸させたのは、ライドウが不意にゴウトの後ろ足に手を伸ばしてきたからだ。
「何だ七綺。俺の脚に何かあるのか?」
「いや。今日歩いた距離について考えていたら、ふと思い出して。」
「思い出す?」
「ああ。前の踏査も、こうして長い距離だったな、と。」
「む……ああ。桜田山の時のことか。」
街から街、山から山へ。そういえば、あの後は帰宅後にライドウの髪が乱れていたのに気付いたので、直してやったのだったか。

「そういえば、ゴウトは、いつも俺の拙い踏査に付き合ってくれていたな。……ありがとう。」
「俺が七綺に同行するのは当たり前なんだが。……どうした、急に?」
あまりにもライドウがしみじみとした口調で語るものだから、ゴウトは漠然とした不安を抱いた。
何をそう当たり前のことを口にする?
俺がお前に付き添うのは今に始まったことじゃないだろう?
目付役から相棒へと変じたこの関係。
感謝など必要ではないし、それに俺はそんなものを求めてはいない。

「七綺、もしやお前は……」
そろそろ単独で行動したくなったのか? それとも俺の助言はもう必要としないか?
一人前になった雛鳥は、とっくに雛では無くなっている。――そんなことは随分前から知っていた。

ああ、いつでも巣立てるのだ。
そうだ、いつでも離れていけるのだ。
此処から、この場所から。

――俺の傍から、七綺が離れていく。

(……遂にお役御免……か?)
ゴウトは軽い動揺を覚える。ライドウが頭上で何か話しているようだが、今のゴウトには耳鳴り以外は聞こえない。
「今まで有難う御座いました」と。
送り出してきた葛葉見習いから受けた別れの言葉が過ぎる。
ああ、名前も顔もおぼろげだが、皆が皆、良い葛葉ライドウだった。
この業斗童子、それこそ葛葉ライドウ以外のデビルサマナーの手解きをもしたことがある。
しかし、我が雛鳥と表現する書生は十四代目ただ一人きり。
別れは受け入れる覚悟で居たが、それでも――。

まだ、手を放したくはない。
まだ、手を離れるには惜しい
柔らかな雛鳥。

(だが俺は……業斗童子だ。)
猫の身。咎を背負いしこの体。枷になるのは避けたいと思う。
(ああ。俺は七綺の相棒だ。見っとも無い真似なぞは出来んな。)
それでゴウトはようやく気を持ち直すと、グイと顎を引いて口を開いた。

「――俺を連れて歩くのは具合が悪かったりするか、七綺?」
すれば彼の書生、「え?」と言った後、困ったように首を傾げて。
「いや。ゴウトと共にいて拙い事など、何も無いけど。」
即答に近い答えには、淀みも騙りも無く。
それどころか、「ゴウトと一緒のほうが踏査がしやすくて助かるくらいだ」などと、実に嬉しそうに告げて――しかも、僅かに恥らうその顔がまた胸を掴み上げてきた――ものだから、今度は妙にどぎまぎしてしまう。
「そ、そうか? うむ、ならば良いんだが……しかし七綺、何故そうも感謝を繰り返すんだ?」
「うん? 俺がゴウトに礼を言うのは、おかしい?」
「いや、なんと言うか、な……その、別れの挨拶のように……思えて、な。」
「別れるなんて、そんな。俺はまだまだ指導が必要な探偵見習いだよ、ゴウト。」
そう言って、不安そうな面持ちの頭を優しく撫でるライドウの手つきは、優しく温かい。声は真っ直ぐで、偽りの無いことを証明している。
ゴウトはそれで、すっかり安心した。
強張った体から力を抜くと、ぽふりとライドウに凭れかかって言葉を繋ぐ。
「まあ、お前が未熟者云々は後でまた話をするとして――ああ。そういえば、何か言っている途中だったよな? 続きは何だ?」
「え? ……聞いていなかったのか? ……相槌を打っていたのに?」
「い、いや。聞いてはいたが――再確認だ!」
「う……ん? まあ、構わないけれど。」
何もそう怒らなくても、と思いながらも、彼の書生は素直にもう一度、会話内容を再現した。

「同じ事を繰り返して言うけれど、帰社後に俺の部屋に寄って欲しいんだ。」
「む……七綺の部屋に、か? 何だ、悩みでもあるのか?」
「ふふっ。違うよ。続きは帰ってから話す。それで……どうかな、ゴウト?」
「ま、まあ……別に構わんが。」
「ありがとう。じゃあ急いで帰ろう。」
ライドウは何やら名案――それとも妙案か?――を思いついたようだが、どうにも甘い声と微笑で隠匿してくれるものだから、ゴウトはすっかり魅了されてしまって、とにもかくにも承諾してしまったのだった。


◇ ◇ ◇


「仕度をするから、ゴウトは先に戻っていてくれ。」
帰社後、ライドウにそう言われたのでゴウトは彼の自室に向かった。
もしドアが閉まっていたら、俺は部屋の前で手持ち無沙汰になるんだがな、と失笑しながら廊下を歩いて辿り着いた部屋の前。
ドアは、ゴウトの心中を見透かしたように僅かながら開いていた。それは丁度猫一匹分の隙間で、ゴウトの苦笑をますます深める。
用意周到なことだな、と思う。

「……本当に、成長が早い。」
呟いたゴウトの声は、言葉とは裏腹に少しだけ憂いを帯びていた。


◇ ◇ ◇


「済まない、遅くなった。」
「ははっ。なに、そう待たされては居ないさ。」
ゴウトの言葉どおり、ライドウが部屋に入って来たのは五分くらい経ってからだった。そんなことよりも、ゴウトはライドウが手に持った盆に意識を引き付けられる。
「七綺、それは? ――うん? この香りは……」
ライドウの登場と共に、部屋にふくいくとした香りが立ち込めた。癖のある、しかし深いではないそれには何処となく覚えがある。
「これは……薬膏か。」
「やっぱり匂いで分かってしまうか。」
答えを悟られたせいか、ライドウがはにかんだ。
ドアを閉めると、静かな足取りで近づいてきてゴウトの傍に鎮座する。ことり、と傍らに置かれた盆には、清潔で柔らかそうな手拭と湯気の立つ洗面器が乗せられていた。
「……ふっ。七綺、お前の意図が読めたぞ。」
にやり、とゴウトがしたり顔で言えば、ライドウが頷いて。
「流石だな。そう、前に毛繕いをしてくれた御礼だよ、これは。」
「成程。それでこの沐浴か。うむ。……だがな、七綺。いきなり湯浴みというのはちょっと」
「ん、分かってる。これは足湯として用意したものだ。」
「足湯? 湯浴みじゃないのか?」
「まさか。ゴウトは、少しずつ水に慣らす必要があるじゃないか。だから、ゆっくりと、だよ。」
ぽふぽふと猫の頭を撫でて微笑むと、ライドウはシャツを二の腕辺りまで捲り上げた。
「さ、ゴウト。」
「お……う?」
両手を広げた格好の相手から甘い声で呼びかけを受けたゴウトは、そこに微かなくすぐったさを覚えながらも相手に近づく。ライドウは「ありがとう」と頷き、ゴウトの胴に腕を回して自らの膝上に抱き抱えた。
「う、うむ。なんというか緊張するな……。」
抱えられるのは初めては無いのに、どういうことか妙にライドウを意識してしまう。きっとこれは薬湯の匂いのせいだ、とゴウトは責任転嫁をする。
「じゃあゴウト。今から始めるけれど、痛みや不快を覚えたら直ぐに言って欲しい。」
「痛みは無いと思うが……しかし七――うわ!?」
返事を待つより早く、ライドウはゴウトの足裏に指を当てるなり早速揉み始めた。
「な、七綺、待て、ちょっ……!」
「――ん。痛いか?」
「い、いや……だ、大丈夫……なんだが……。」
「そう。じゃあ、続けても?」
「お、おう……」
再び、足裏をもにもにと探られる。その手つきは優しく、ゴウトの心を捕まえてくる。
「済まないな、こんな礼で。未熟なこの十四代目は、他の方法が思い浮かばなかったんだ。」
「む、う……だが」
「それに、ゴウトにはいつも迷惑を掛けているから……きっと、疲労が溜まっているだろうな、と気掛かりだったんだ。」
「……俺は、お前を迷惑などと思ったことは一度も無いぞ、七綺。」
「ん。そう言ってくれると嬉しい。それでも、ゴウトには礼をしたいんだ。……したかったんだ、どうしても。」
「……我侭な雛鳥め。」
「そうだな。これは俺の我侭だ。済まない、甲斐性がなくて。」
「……。」
薬湯の匂いよりも、ライドウの語る声に、言葉に、くらくらする。

何を言う。
何を言う。
この”礼”の、どこがささやかだ。

よくもそんなことが言える。
よくもそこまで言い切った。
その”心”だけで俺はもう十分だと言うのに。
ソーマがどうした。
あれは一度使えば消えてしまう唯の雫。
お前の心は消えないじゃないか。

お前の想いは、そら、こんなにも体中に染み渡って――。

「……気持ちが良いのか、ゴウト?」
ライドウの声に、ゴウトは目を開けた。どうやら、自分でも気づかぬ内に喉をぐるぐると鳴らしていたらしい。その証拠に、ライドウの指先がゴウトの喉下を優しく撫でていた。
なんとまあ、本能というものはどうにも恐ろしいものだと思う。
――だが、それがどうした。
構うものか。
隠すことなど何も無い。恥でもない。
この膝の上、陽だまりに似た心地よさ。
これがライドウの微笑を独り占めにした上で受ける咎ならば、何とも無いことだ。

微罪すらも足りず。
罰にしては甘すぎて。
ゴウトはライドウの方へ寄りかかると、再び目を閉じていく。
頭上の囁きは甘く、足に触れる温もりは温かい。
これくらいの罪ならば、幾らでも与えてくれ。
ああ、それどころか自ら進んで受け取ろう。

「これからも宜しくな、ゴウト。」
「ああ。当たり前だ七綺。」
柔らかな雛鳥は、何時まで経っても黒猫の雛でありたいらしい。
離れがたき、この絆。
断ち切りがたき、この慕情。
その引力故に、時折、このまま更に踏み込んでいきたい、と――そんなことを、考える。
ゴウトは、猫らしからぬ顔をして笑う。

「まさかこんな事になろうとはな。」
この業、その咎は軽くなることなど決して無く。
それどころか緩やかに、自らの雛鳥によって重なり増えて――ますます罪深くなっていく有様。
ゴウトは冷笑にも苦笑にも似た笑みを浮かべ、頭上を振り仰いだ。
すればそこには穏やか微笑を浮かべた人嫌いの雛鳥が居て、ゴウトしか知らぬ眼差しを注いでいる。
憧憬の瞳。だが一歩間違えば、親愛を超えたものにすら見える視線。
ゴウトは目を閉じたまま、水音に掻き消える声音で呟く。

「それ以上俺を勘違いさせないでくれ、七綺。」
ああ、麗しの雛鳥。
その身体はきっと、甘いのだろう。

食んだが最後、それはさながら毒のようにこちらを侵して殺すのだろうが、それでも――。

「なあゴウト、明日は何処へ行こう?やはり此処は、近い場所のほうが良いと思うのだけど。」
「……それくらい己で決めろ。あまり俺を頼るんじゃない。」
「あ……す、済まない。」
「まあ、お前は俺と違って”二つ足”だから、そろそろ疲れている頃なんだろうけどな。」
「ゴ、ゴウト!」
「はは。冗談だ、むくれるな。」
ライドウの無邪気な問い掛けにどうにか軽口で答えたものの、それでもゴウトの胸中は水音のように波立ったままでいた。