書生の御守猫 omamori
02.まほろば
ずり、ずり、ずり。
廊下に、鈍く荒い音が響く。
ざり、ざり、ざり。
ゴウトは何かを引き摺りながら、一歩ずつゆっくりとした歩調で廊下を進んでいた。
ずり、ずり、ずり……ざざり。
途中、それを床上に置いたのか、不可解な音が止まる。前足で顔を洗って軽く毛並みを整えると、そこで、ふうと一息吐いた。
これは思った以上に骨の折れる作業だ。――たったいま引き摺ってきた物を見下ろしながら、ゴウトはそんな事を考えた。通常より猫の視線から何とはなしに見ていた光景だったが、実際にこうして人の動作を行うとこうも面倒で手際が悪いとは。
「……タイプライタァは上手く使えたのだがな。」
呟けば、ふと脳裏にいつも報告書を記述する際に四苦八苦(というか、格闘?)しているライドウの姿が浮かび上がり、ゴウトは思わず苦笑する。
「……いや、そうだな。不器用な七綺の行動をなぞることが出来たんだから、俺に出来ないことはない筈だ。」
ゴウトは右前足を持ち上げ、そこへ視線を留めた。
ふにふにとした肉球。
猫に出来るのはせいぜいが鞠を転がすことくらいだろう、と常人ならば思うだろう。
――だが、この身は唯の獣に非ず。
己が真名は永劫隠匿されようが、其は平凡な猫に非ず。
なれば我は何者だ?
「――俺は業斗童子だ。」
宣誓として言の葉を形にすれば、それで気持ちに区切りがついた。
これにて小休憩終わり。
さて行くか、と呟いて、黒猫は再び”それ”を引き摺りながら廊下を進み始めた。
ずり、ずり、ずり。
ずり、ずり、ずりり。
人気の無い静かな廊下に、不可思議な音だけが響き渡る。
◇ ◇ ◇
「う……ん。」
目の奥が熱い。
こめかみの辺りを流れる汗が不快で気持ちが悪いが、拭おうにもしかし、手が泥のように重くて動かせない。
体内の気が淀み、澱となって凝っているのだ――そう認識できるくらいの意識はあるのだが、目を開けるほどの気力は無かった。
昔からこうだ、とライドウ――七綺は嘆息する。
目蓋の裏で、正体の知れぬ幻影が赤く渦を巻いていた。じっと見詰めていると吐き気を催しそうな、赤黒い嫌な模様。引き摺りだされるのは生理的嫌悪と、それから――忘れていたい、過去の記憶。
――子供の声を、聞いた気がした。
「ぐ……っ、ん、……っは……。」
思わず息を止めそうになり、ハッと我に返る。今のが幻聴だと自覚するのに時間が掛かったのだ。
これは、少し危うい……いいやかなり悪い兆候だ。七綺は目を閉じたまま、眉を顰めて短く唸る。
未だに目が開けられないのは、眼球に居座る熱のせいだ。完全に倒れる前に氷のうを用意すれば良かったと反省するも、もう遅いし、それにここまで具合が悪くなるとは思っていなかったせいもある。
別のことを考えよう――そう考え、幻影に意識を向けないよう注意を払いつつ思考を切り替えようとした時、ふと、眠りに落ちる前の黒猫との記憶が脳裏を過ぎった。
ああ、ゴウト。
業斗童子。
今回のことは、きっと疲労からの体調不良だと思っているだろう。
寝所に横になる前の廊下、部屋まで見送りに来てくれた優しい相棒の姿を思い出し、七綺は深く息を吸う。
――ああ。
零れたそれは、感嘆ではなく溜息だった。
――ああ。
嘘を吐くことを許してくれ、ゴウト。相棒となれた今に於いても尚、貴方に深層は明かせない。
重い目蓋をどうにか持ち上げて天井を見ると、光景が曇り硝子のようにぼやけていた。
熱のせいだろう、頭も靄がかったようにぼんやりしていて、上手く思考を纏めることが出来ない。
しんとした室内。自分の微かな呼吸音が嫌に大きく聞こえるのは他に音が無いせいだ。
孤独の檻に、一人きり。
独りは嫌だ。
ライドウになる前の、情けない自分を思い出してしまう。
継名を受け取る前の、無様で醜い己を思い出させてくれる。
檻の中の子供。
かごめ籠女。
物心を覚えた己が先ず理解したのは救いようの無い愚かな罪。
「ぅ、っ――……!」
唄を一節も思い出さぬうちに、吐き気を覚えた。
耐え切れず、ぎゅっと目を閉じる。あれは言の葉の欠片だけでも強い呪詛がある。
(回想、すらも……しては、いけない。)
意識を逸らし、深呼吸して自らを落ち着けることにした。
ゆっくりと息を吸い、同じような緩さで息を吐く。しかし、吐き気は未だ治まらない。それどころか歯がかちかちと鳴っていた。
怖いのだ。
一人で居ることが。
ああ、素直に告げよう。
恐ろしいのだ。
独りきりになるのが。
孤独のままで居るとあの声が、あの姿が、途端に明確な形となって誘いかけてくるから。
怖い。
怖い。
怖い。
感情がその言葉一色で満たされる。七綺はそこで、己が本当に弱っていることを確認した。
病は気から、という言葉を正にいま実感し、その自身の脆さに深呼吸とは違う溜息を吐く。
ようやく一人前になれたと思ったら、この有様とは。ゴウトはきっと、大きく落胆――もしくは軽蔑――しただろう。目付役であるゴウトが恥じぬように、誇れるようにと心身研磨に努めた日々は、何の為だったのか。
役立たずの刀。
情けない葛葉。
現に今、子供のように怖いと怯え、情けなく伏している。
「は、……っ……、ゴ、ウ――ト……」
彼の名前を呟きかけたその瞬間、ぐらりと強い眩暈に襲われた。
しまった、と思う間も無く、僅かに気が抜けた間隙を突いて、体内に淀む熱が七綺を再び眠りの中へと引き込んでいく。
意識を手放す間際、赤い月を見た気がした。
『七綺。アソボウ。』
子供の声に――真名を――呼ばれて……意識はそのまま、落ちるように堕ちていく。
◇ ◇ ◇
「七綺。起きているか?」
ずりずりずり、と台所より引き摺ってきた物を、ドアの隙間からゆっくり中へ押し込みつつゴウトは寝台の雛鳥に声を掛けた。
だが、返答は無い。
また眠りについたか?と思いながら、持ってきた物を完全に内に引き入れてからドアを閉めた。
「おう七綺、良いものを――」
――持って来てやったぞ、喜べ、と言いかけたゴウトの言葉が、そこで止まる。
室内には、妙な静けさが満ちていた。いや、相手は病人で伏しているのだから、静かなのは当たり前なのだが……。
「……七綺?」
寝台の上に横たわるライドウは、ゴウトが部屋を出る前と同じ体勢であった。
ただ一つ、違っているものを除けば。
その横顔、ぞっとする程に青褪めて。
彼の呼吸、不安定に乱れていて。
「――七綺っ!」
叫ぶなり、ゴウトは真っ直ぐに彼の元へ飛んだ。――文字通り、飛んだのだ。床の上より疾駆して跳躍した先は、枕元近くに置かれた小机。直に枕元へ落ちると衝撃があるので、念の為にと距離を置いた上で。
そこから寝台へ移り、側へ寄ったゴウトは彼に顔を近づけて呼びかける。
「七綺。どうした、大丈夫か?おい、七綺――」
前足で肩を軽く揺すってみるも、眠りが深いのか七綺は目を覚まさない。
これは明らかにおかしい、と思った。
単なる体調不良にしては異常すぎる。
「む? これは――」
その時、肩に置いた前足に妙な違和感があった。ちりちりするというか、ぴりぴりするというか。物理的ではなく擬似からの感覚に、ゴウトは眉を顰めて呟く。
「瘴気……か? いや、違うな。これは……」
意識を集中して見詰めれば、緑瞳を通して揺らぐ陰を見つけた。陽炎が如く揺らめくそれが現しているものは――。
「――魔力の暴走か。」
そういえば、彼の書生は人にしては高すぎる――デビルサマナーという肩書きを差し引いても余りある魔力を宿しているのだったか。
それを知ったのは、確か衛星タイイツを撃ち落す前夜。ゴウトがロケットに搭乗することを知った七綺が、それを引き止めようとして明かしてくれた情報だった。
自らの事を明かすのを頑なに拒んでいた、彼が。
その秘密を、少しだけ語ってくれた。
自分はまともな人間ではないのだ、と言って。――だから犠牲になるのは自分であるべきだ、と実に愚かなことを言ってくれたものだから、ああ、盛大に怒鳴りつけてやったのだ。あれが初めて本気で叱ったことだったから、鮮明に覚えている。
だが、それがまさか疲労からの不調ではなく内部からの不整とはその時は考えもせず。思う由も無く。
「この揺らぎは、陰陽に関係があるのか?」
窓の外、ゴウトは硝子越しに見上げ、夜の空に浮かぶ満月に目を留める。
「それとも、別に原因があるのか……むう。このような症状は所見だから絞り込めんな。」
ともあれ、これは定期的に起きている不調らしい、とは判断した。改めて、今までのことを思い返す。
――そういえば、七綺は時折、眩暈のようなものを起こしていた。
貧血、もしくは過労なのだろう、と。そう思っていたから、彼が寝込んだりふらついたりする度に、「軟弱者め」と叱咤していたのだ、この目付役は。
何も知らずに、責めていた。
何も知ろうとせずに、からかっていた。
「……独りで耐えていたのか、この莫迦者が。」
何も言わずに。
何も言い返さずに。
ただただ、弱い微笑を浮かべて「済まない」と自らばかりを責めていたのか、彼の書生は。
「いや……莫迦は俺だ。」
浅い呼吸をしている七綺を見詰めて、ゴウトは呻く。眉を寄せているその顔は美しいが、あまりにも青褪めている為にひたすら痛々しく見えた。
「辛いのか、七綺。」
呟き、精気を欠いている頬を伝う汗を舐め取ってやる。それが何の慰めにもならないことは知っていたが、何かをしてやりたかったのだ。
ざらり、と猫特有の舌のざらつきが彼に余計な痛みを与えなければいいが、と懸念しつつ、そっと静かに汗を舐め取る。
彼の体液を、そうして体内に取り入れたのが原因か――ふっと、感じるものがあった。
ゴウトは舐めるのを止め、眠る七綺の横顔に視線を向ける。
気の揺らぎ、僅かに熱を持つ肌。
これは、もしや――。
「流れを失った気が滞留しているのか。」
その開眼は偶然かもしれなかったが、ゴウトは喜びで気が引き締まるのを感じた。
七綺が、己の雛鳥が、苦しんでいる。
自分は何をすれば良い?
自分に、この猫に、一体何が出来る?
喜びも束の間、現在の在り様を思い出して少しずつ気が削がれていく。
原因が判明したから、どうした? お前は猫なんだぞ、業斗童子。
己を哂う、内なる声を聞く。
結局は、どうしようもないのか。業斗童子は業だけを背負っていればいいと?
「俺は、こんな時も役立たずなのか?」
気落ちし、がくりと項垂れかけたその時――視界の端に、何かが映った。
はっとして振り返る。そこで見つけたのは、先程ここへ持ってきた”看病道具”だった。
薬を飲ませる為にと四苦八苦しながら、彼の為にと右往左往しながらもどうにか完成させた代物だ。
平凡な猫には先ず真似出来ないであろう品物が、そこにあった。
お前は唯の猫だったか?
――違うだろう、業斗童子。
罪を犯し罰を受けしその身は、凡たる猫に非ず。
現にアレを見ろ。人の真似事を、どうにかなぞることが出来たじゃないか。
「する前から諦めてどうする。」
己を叱責する黒猫の瞳に、炯々とした覇気が宿る。
「――七綺。此方を向け。」
ゴウトは両前足で相手の顎の辺りを掴むと、傾き加減になっているのを真っ直ぐに上向かせた。
衝動で、くっ、と唇が開く。
おあつらえだ、と猫らしからぬ表情でニヤリと笑う黒猫。
薄暗い部屋の中で薄く見える彼の唇に顔を近づけて――……。
ふぅ――。
ゆっくりと、しかし確実に息を吹き込んだ。
正しくは、息ではない。――活力を生かす息だ。淀んで滞留している彼の気を正しい流れへと導いてやる為に、生気を吹き込むのだ。
躊躇いは、無かった。