書生の御守猫 omamori
03.まかなし
深く触れると禁忌を犯すことになるだろう、という予感は、いつから芽生えたのだったか。
これ以上の罪を犯すことを恐れ、当初はかつての葛葉以上に厳しく接していた。
誰よりも、厳しく。
何よりも、頑なに。
細々としたことを注意し、警告し、それこそ口煩いくらいにしていたから、この十四代目は途中で嫌気が差してコチラに嫌悪を抱くか、それかすっかり諦観して手見本のような葛葉になるのではないか、と予想した程だ。
――道だけを外れなければ、どうでも良かったのだ。最初は。
帝都の守護。烏の刀。優先されるのは先ず任務であり、葛葉個人の意思は何よりも低位置に置かれる、その運命。
そう簡単に逃げられず、放棄することを赦されない人生を背負うには、若い身空では酷なものだったろう。
それでも、十四代目は着いてきた。――先ずは、この黒猫に従って。
そうして、葛葉ライドウへと成長した。――遂に、この業斗童子を厭うこともなく。
この雛鳥は、人よりも黒猫に懐いている。
懐いてしまったのだ、この咎負うものを。
それどころか、ああ、嫌われなかった!
しかも彼の雛鳥は刷り込みが如く敬愛してくれたままで、此方を置き去りにすることも出来るのに、自分はまだ未熟者だといってなかなかに飛び立とうとしない。
莫迦なことを言うな、とか、何を甘えたことを言っているんだ、とか叱ることは出来た。
けれどこの目付役は、控えめに甘える彼の書生が、彼に甘えて貰えているということがどうにも嬉しくて、いまいち厳しくなりきれないのだからどうしようもない。
「俺はお前の業斗童子だ、七綺。」
真名の代わりに付けられた咎名を、こうも易くするりと言える己は本当に末期だと思う。
愛しい雛鳥。
大切な相棒。
深く関われば、傷を負うだろう。
触れる距離を縮めれば、傷を付けてしまうだろう。
それでも、愛しいから離れられない。
「この罪が増えようとも、七綺、俺はお前の助けになるぞ。」
重なる罪に怯えるなど、今更だ。
この身、今は黒猫なれど、かつては同じ帝都の――……。
「俺の力を貸してやる、雛鳥。……ふふっ。光栄に思えよ?」
少し血色の良くなった雛の口端にちょんと口付けを落として、黒猫は機嫌良く笑う。
悪戯げに呟いたその声、表情はまるで人のようだったが、昏倒している雛鳥が分かる筈も無い。
◇ ◇ ◇
気の滞留を整える為に口付けをした途端、異変が起きた。
「んっ……ん、っ……ふ……」
七綺が眉を顰め、顔を背けようと身動ぎを始めたのだ。
意識は勿論無いままなのだが、それでも人に触れられることを苦手とする意識がそうさせるらしい。
ともすれば拒絶されているような反応だが、ゴウトは七綺が人嫌いなのを知っているので、柔らかに苦笑する。
「大した潜在能力だな、七綺。けれど――」
爪を立てぬよう気を付けつつ、左前足で宥めるように彼の頬を撫でた。そうして顔を近づけ、囁く。
「……悪いが、今はお前の望む通りにはしてやれんよ。」
優しい声で話し掛けると、右前脚で額を押さえつけ、は、と口が開いたその瞬間を狙って再び唇を奪った。
「ん、う……っ――ぐ……っ」
七綺が苦しげにしているのは、気が上手く整わないせいか、それともこの接触に対してか。……前者であると助かるのだが。
「……拒絶しないでくれ、七綺。」
彼の意図せぬ反応だとしても、やはり少し胸に響く。ゴウトは悲しげに緑瞳を細めるも、それでも七綺の表情から目を離すことなく口移しで息を吹き込んだ。
「安心しろ。俺がお前の澱みをきちんと治してやるから。」
「……ん……――は、っ……」
息継ぎで唇を離す合間を縫って、嫌々と首を振る雛を慰める。
「俺の声が聞こえるか? お前を苦しめものは俺が排除するから。」
時々に流れる汗を見つけては、行為を中断して舐めとってやる。
「ん……、……、……はあ。」
気が安定したのもあるのだろう、次第に七綺の呼吸が落ち着いてきた。彼の雛鳥は最早顔を顰めてなどおらず、逃げようともせず、ただ大人しくゴウトの行為を受け入れている。
「……良い子だ、七綺。それでいい。」
黒猫が緑瞳を細めた。但し、苦痛からではなく真なる喜びで。
「このままお前の痛みが俺に移れば、一番良いんだがな。」
そう呟いたゴウトの瞳に差すは過去の一片、微かな痛み。
――斑駒(ふちこま)のことを思い出す。
十四代目ライドウ一度目の帝都守護の折、やんごとなき御仁の呪いをその”斑駒”で身代わりに受けるというそんな”依頼”があった。
帝都を守護する刀の役割だとはいえ、それを何の迷いも無く受諾したライドウの姿は凛としていて見事だったが、しかしあまりにも純粋すぎて見ていて辛くなったのを覚えている。
『俺のような若輩者には勿体無い大役だ。』――不満を眉間の皺に現していた黒猫に、呪いを受けたライドウがそう言って浮かべていた微笑みには、混じりけの無い誇りがあった。
そんな気高い面差しを見せられては、そのような煌とした眼差しを向けられては、体良く利用されているだけだ、とは言えやしない。
思えば、あの時にはもう”雛鳥”ではなかったのか。
「それでも、お前は俺を頼ってくれるのだから……まだ”雛鳥”でも構わんよな?」
心の裡が苦いもので満たされかけたが、生気が戻ってきた己が葛葉の顔を見た途端に霧散した。
どうも、この目付役は単純らしい。成程、鳴海が呆れるわけだ、と己が過保護ぶりに失笑が零れた。
けれども、まあ――……。
「――愛しいのだから、仕様が無いだろう。」
言い訳ではなく開き直りを以って、七綺の唇を舐めた後に再び口付けた。
今は精気も息吹も足りているようだが、もう少し――あと少しだけ、この余韻に浸らせてもらおう。
「我ながら、狡い駄賃搾取だと思うが……オマケだ、七綺。受け取ってくれ。」
囁きは、この上ない甘さが含まれて。
ゴウトは七綺に、深く丁寧に息を――口には出せぬ思いを、吹き込んだ。
◇ ◇ ◇
闇の中、白く揺れる影を見詰めていた。
何度目の夢だろう。絶望の吐息が零れる。
四肢の自由は無い。
辛うじて動かせるものといえば、眼球くらいだ。
――この世界では、いつものこと。此方の意思が尊重されることは無い。
「アソボウ。ナナキ。」
「――ッ……!」
唐突に、直ぐ近くから子供の声がした。
夢に落ちる度に聞こえる声だが、慣れる事は決して無い。
「あ……あぁあ……」
自然と震えが走り始める。これがいつも此方の恐怖を駆り立て、錯乱に陥れてくれる最初の合図なのだ。
「ナナキ。今日ハ、ナニヲシテ遊ンデクレル?」
声のしたほう、右腕にねっとりとした違和感。視線を向けてはいけない、と微かな理性が警告したが――結局は、逃れられやしないのだ。
七綺は、其方を見てしまう。
側に、小さな子供が立っていた。七綺の手をきゅうと掴んでおり、クスクスと無邪気に笑っている。
「う……っ」
こくり、と喉が鳴ってしまった。闇の中が故に、白い子供の影は際立っていて、此方の視覚の中に明確に入り込んでくる。
「……ナナキ」
「ひ、っ」
子供が振り返る。瞳の無い、唯の虚空を向けて。
そして、此方が見ていることに気づくと――にぃ、と笑いかけてきた。
「ナナキ。」
「……ぁ……っ」
人は、真なる恐怖を感じると声すら出なくなる。七綺はカチカチと歯を鳴らして子供たちを見ないようにと正面へと顔を背けたが、この夢に逃げ場など何処にも無いのを失念していた。
「逃ゲタラダメダヨ。」
目の前にも、子供たちが居た。
七綺と目が合うのを待っていたかのように、小さな手を伸ばして笑う。
「サア。遊ボウ、ナナキ。」
「……っ、ひぃ、いぃい……――」
這い上がる恐怖。体内の気が淀んでいくのを感じた。
強い吐き気と眩暈に襲われた七綺はもう何もかもを諦観し、抵抗することなく子供たちに引き摺られていく。
もういっそ、このまま喰われてしまえばいいのに――と目を閉じたその時、ずるずると引き摺られていく体が、不意に止まった。
「……あ……?」
いつの間にか、左腕を何かに捕まれていた。触れたその箇所から、温かいものが流れ込んでくる。
「な、に……?」
ふっと周囲から笑い声と気配が消えた。
あの純粋な幻覚は光を嫌う。右の引力が無くなった為、七綺の身体は左側へと傾いた。
そしてそのまま、心地良い温もりの中へ――ぽすり。
「ん……。」
これは何だろう、と七綺は眩む意識の中で考える。腕を掴む影は確かに人の手の形をしていて、抱き締めるそれも人のようであると思うのだが、精神的に疲労しているせいか撥ね退ける気にはならない。
それどころか、人らしきものと接触しているのに嫌悪感が無かった。
――ああ、疲れているせいだな、と勝手な言い訳をする。だから、腰に腕が回されても何もせず、腕を掴んでいたのが頬に触れてきても、疲れているから体が動かせないのだと責任転嫁が出来た。
「七綺。」
頭上で真名を呼ぶ声がする。聞き覚えがあるような無いような、不思議な声。
顎を持ち上げられて見上げた先に、美しい翡翠が一対。
全くに知らぬ人影の、見覚えのある瞳。
「まさか、貴方は――……」
紡ごうとした答えが、口付けで塞がれる。それがあまりにも性急だったので七綺は一瞬びくりとしたが、直ぐに目を閉じると、相手に身を預けて行為を受け入れた。
「……良い子だ、七綺。それでいい。」
褒めたその声音は柔らかく、甘い響きを帯びていた。
深くなる口付け。
その甘さ、声音が、何処となく自分の知ってる黒猫に――ゴウトの声に似ている気がして、七綺は安堵の眠りに落ちていった。