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書生の御守猫 omamori

04.まえぶれ


静かな夜だった。
硝子越しに外を一瞥し、ぼんやりと浮かんでいる満月を眺めるゴウトは安堵の表情。
その側には、眠る雛鳥。美しい横顔に、青褪めた影は無い。
白い肌に落ちる長い睫の影を見詰め、ひっそりと零すは独白。

「かつて……俺は様々な葛葉ライドウと共に生きてきたが、その中に於いて、俺がこうも心を焦がさざるをえなかったのは七綺、お前の代だけだよ。」
何も知らず眠る雛の頬をチョイと軽く突付いて、黒猫は笑う。額に触れてみれば未だ少し熱があるようだが、それでもだいぶ下がったほうだろう。
すっかり安定した呼吸。汗で頬はしっとりとしているが、不安なものはない。
穏やかな寝顔。心配事は解決してくれたようだ。
この一日で、未処理の調査依頼や報告書の類などが蓄積されたが、それでも七綺の身に溜まった疲労程ではないだろう、とゴウトは思う。

大切なのは物より人だ。
仕事よりも七綺だ。
それに――、と思う。
それにあの程度、挽回した俺の七綺ならばあっという間に片付けることが出来るのだから、何も問題は無い。

「俺の七綺は優秀だからな。」
帝都の守り刀も、彼の黒猫に掛かれば雛鳥扱い。
所々に”俺の”と所有名詞らしきものが付いているのが気になるところではあるが。
「たまには、こういう休息も良いだろう七綺?」
柔らかに問いかけて、眠る雛鳥の頬を鼻先でちょんと突く。
「お前は少しばかり頑張りすぎるきらいがあるからな。……ん? ああ。」
話しかけている最中、額の上に載せた手拭が温くなっているのに気付いたゴウトは、寝台から少し離れたところにある机に駆け寄った。
冷えた水を張った洗面器。そこへ、温くなった手拭を浸して――水気はどうにも苦手だが、今はそんな場合ではない――引き上げた後に、何とか不要な水分を絞ってから口に咥えると、七綺の側へと戻った。
彼の額に手拭を載せれば、ひやりとした感覚が心地良いのか七綺の表情が柔らかくなる。

これで良し。

「猫の身とはいえ、やれば出来るものだな。」
流石は我が身。ゴウトは、ヒゲを揺らして満足げに頷く。ヒトの姿であれば、胸を張って得意げにしているだろう。
「どうだ七綺。俺も満更ではないだろう?」
ふふんと笑うゴウトはやはり、猫らしくない。
「こう言ってはならんだろうが、俺はお前が倒れて、実は少し……嬉しいんだ。」
ライドウが聞いたら困惑するだろう台詞を口にして、ゴウトは緑瞳を細める。
一人では何も出来ない雛に戻ったことが、不謹慎ながらも嬉しい。
猫の身でもこうして頼れる存在であるのだと、確認出来るから。

ふと、これは「弱味に付け込む」という行為に値するのだろうか?との考えが浮かんだ。
ちらと横を見るゴウト。酷い汗を掻いてうなされていた書生は、もういない。居るのは、すっかり落ち着いた呼吸で眠る雛鳥がいるばかり。
側にある気配に、安心を寄せて。
その寝顔を見ていると、微かな悪戯心が湧いてこないわけではない。――なにせこの書生、元々が整った顔立ちをしていて美しいのだ――けれど、どうにか理性が押し勝ったのはやはり「猫でも看病出来た」という実績で心が満たされているせいもある。
「……俺は時々、本当に目付役失格なことを考えるな。」
焦げた髭を足先で掻いて、ゴウトは苦く笑う。
「もう少ししたら起こして、一度食事を摂らせるか。でないと何時までもこのままでいそうだ。」
何もしないで過ぎてゆく時間は、そう惜しくない。
この寝顔を見ているだけで充分に飽きることは無いだろうから。


◇ ◇ ◇


「ゴウトに看病などさせて本当にすまなかった。有難う、ずっと楽になった。」
「喜んでもらえてなによりだ。」
この体、猫の姿では役に立たないと自棄していたこともあるのだから。
「……ところで七綺。聞きたいことがあるんだが。」
「うん? 俺に?」
「ああ。先ず、これだけは言っておくが、言いたくないことだったら言わなくて良いからな。これは強制じゃないんだ。」
「あ、うん……?」
こほんと咳払いらしきものをしてから、ゴウトは言った。
「その、……お前、眠りに落ちる前に呟いたことを覚えているか?」
「ん? いや、それが……生憎と、朧げにしか。」
うーん?と考え込むような声を出してライドウが答える。
「俺、何か妙なうわ言でも……?」
「うわ言、というか寝言、というのか、その……腹が減ってないか?と訊ねた俺の言葉は覚えているか?」
「ええと……――ああ。ああ、うん。覚えている。ゴウトは訊いてくれたな。熱で朦朧としていたから、答えが妙なものになっていたかもしれない。すまない。」
「いや、別に謝罪を求めているのではなくて、だな。」
視線を泳がせるゴウトの脳裏に浮かぶのは、あの言葉。

”――ゴウトが、食べたい。”
どこか甘やかなものを含ませた声で告げられた、謎かけにも似た台詞。
お前の真意は何だ、七綺?――と、言おうか言わないか逡巡している黒猫には気付かず、彼の書生、目覚めたばかりの雛鳥は苦笑を浮かべて答えを告げる。

「夕餉はゴウトの希望ばかり考えていたから、ゴウトの食べたいもので構わない、と言ったつもりだったのだけれど……やはり、おかしな物言いになっていたかな。」
「……な。」
「ゴウトは、食事を摂ったか? 俺の看病で、時間を費やしてしまっただろう? 食べていないのなら、今から作るけれど。」
静かに言って、寝台から滑り降りようとするその身体を飛びついて押さえ、ゴウトはぶんぶんと首を振って答える。
「いや、大丈夫だ! 夕餉ならきちんと摂った。俺のことは良いから、七綺はまだ寝ていろ!」
「え。でも、ゴウト――」
「良いから安静にしているんだ! いい子にしていろ七綺!」
相手の台詞を最後まで言わせずに、ゴウトは言葉を重ねる。
もしも自分がヒトの姿だったならば、きっと顔が赤くなっていただろう。
自惚れ。自意識過剰。――ああ、本当に馬鹿なことを考えた! 

「あの、ゴウト」
「――何だっ!」
「……っ!」
思わず唸るような声で反応してしまったのは、まだ羞恥の沼の中にいたからだ。
そんな葛藤など知らぬライドウは、己の相棒の突然の咆哮を受けて、びくりと身を竦ませる。声は出さずに目を一瞬閉じただけだったが、ゴウトには、ひっ、と小さな悲鳴が聞こえた気がした。
逆立っていた気が、元に戻る。

(……病み上がりの七綺に八つ当たりをしてどうするんだ、莫迦者め。)
内心で己の行為を叱責するゴウト。ふーっ、とヒトのように溜息をついて気を静めると、ライドウを見返した。
可哀想に、彼の雛は身を竦ませて、じっとしていた。
自分が何か不愉快な言動をしてしまったのだろうか?といった表情をして――非など無い己を責めて――ゴウトの言葉を待っている。