黄昏を経て真夜中へ
◆01◆ 黄昏に望む黒猫は
「ん……。」
午後のひととき。
来客用の机で報告書を作っていたライドウの手が、不意に止まった。仕事の邪魔にならないよう側で丸くなっていたゴウトが目を覚まし、顔を上げて訊ねる。
「何かあったのか。」
声を聞いたライドウは指先で眉間を押さえると、ゴウトに視線を落として苦笑した。
「ああ……起こしたかゴウト。すまない。」
「丁度起きるところだったんだ、気にするな。それよりも、随分と難しい顔をしてどうした?」
「いや、何でもないんだ。少し……」
「少し……何だ?」
ライドウが瞼を指先で押さえつつ、答える。
「その、目が……重いような気がして。」
「眼精疲労でも起こしたか? まあ、そのように顰め面をしていれば無理もない。」
ゴウトがくつくつと笑ってからかえば、ライドウは僅かに顔を赤らめて。
「好きでこんな顔になっているんじゃない。この、タイプキイ、というのが細かいから……。」
そう答えるライドウの眉間には、気難しい皺が寄ったままになっていた。
この書生は、未だにタイプライターを使うことに慣れていない。不器用なほうではないのだから、その内に使いこなせると思っていた。だが、今でも手間取っているところを見ると、やはり不慣れなままでいるらしい。
相性だろうか?
それとも、文明開化という時代の流れに追いつけていないのか。
下手をすると自分ほうが上手に扱えるのではないか、と――そう錯覚してしまう程に不器用めいたライドウの手際に、ゴウトは笑いを堪え、心中でごちる。
(対人の不器用さが直ったかと思えば、今度はこっちか。やれやれ、手間の掛かる雛鳥だ。)
ふ、と笑いに似た溜め息を吐いて起き上がると、ゴウトはライドウの膝に足をかけた。
「いつかは慣れるだろうさ。それよりも七綺、其処へ少し横になれ、目を休ませろ。」
「え? でも、もう直ぐ鳴海殿が帰宅して――」
「案ずるな。そうなる前に起こしてやるから。そら、作業は一旦置き、横になって目を閉じろ。」
「う、ん……分かった。」
こうなると、幾ら言い返しても無駄になる。ライドウの身を案じるゴウトは、こういう時はひたすらに厳しい。
厳しいというか――頑固、というか。
ライドウは肩を竦めると、大人しくソファの上で横になり、言われたとおりに目を閉じる。
すると、瞼越しに柔らかな何かが触れのを感じた。ふにふにと、何かが瞼を押しているのだ。
柔らかい力加減で、とても気持ちがいい。
これは――。
◇ ◇ ◇
「……ゴウトの、手?」
目を閉じたままで訊ねれば、くくっと笑う声。
「ああ。まあ、手というか足というか。どうだ? 痛くは無いか?」
「ううん。……丁度、いい。」
「そうか。」
「ゴウトは……こういったことに心得が?」
「心得? ははっ、まさか! ただ、いつだったか野良猫が足でこのような仕草をしているのを見かけてな。それでふと、試してみようと思っただけだ。」
「はは……成程。うん……」
「――七綺?」
「……。」
見れば書生は、すっかり眠りに落ちてしまった様子。余程心地が良いのか、いつも身に纏うている警戒心は欠片も無い。
その寝顔は、まだ幼さが残る子供のもの。ゴウトは笑い、顔を近づける。
「全く。相変わらず、起床と就眠の時の表情の差が大きい雛鳥だ。」
ライドウは当初、もっと無機質な印象が強かった。
人が嫌いで、他者との関わりが苦手な葛葉の新米。
戦闘に於いては優秀なのだが、こと人が絡むと途端に劣勢になる姿を見て、よく苦笑したりしたものだ。
それが今では、この有様。
寝息静かに柔らかな表情で眠りに落ちている書生には、日頃見られる凛とした召喚師のライドウは何処にも見られない。
真名の形をとった青年が一人、猫の側に居るだけ。
気が緩んだというのか?
いいや、これは心を少しだけ許してくれた証なのだ、と――そう思うのは、こちらの自惚れに過ぎないだろうか。
答えは、ライドウしか知らない。けれども、こういうところは今も同じ。
心を惑わしてくる様は、いつも見事で――愛しくて。
「俺は……いつまでこうしてお前の側に居られるのだろうな?」
寂しげにヒゲを揺らし、ゴウトが呟く。
「あとどれだけ……共に過ごせる時間が在るのだろう。」
時間を重ねるごとに、想いが募りはじめたのは何時からか。
未練が強く、執着が深くなり――離れがたくなったのは、どの辺りから?
「役目を終えた後でも、俺は傍らに在り続けたいのだけれど……な。」
しかし、その願いは叶わぬだろう。未来を視たわけではないが、そうなる予感がする。
不確かで曖昧な、けれど――透けて見えた確かな答え。
この事を話したら、ライドウは笑うだろうか?
それとも――泣いてしまうだろうか。
業を背負い堕ちた果ての、この姿。
せめて猫の戯言だと受け取って笑って欲しい。
「願わくば――……お前の行く先に、災禍凶事無いことを。」
ライドウの鼻先をちょいと突付くと、ゴウトはそっと唇の端に小さく口付けた。
緩やかな罪。重ねる咎。
咎人に堕ちた身の上であるというのに、まだ懲りず。
そうとは知らずに眠っているライドウの寝顔を見て、ちくりと胸が痛む。
(いかん。寝込みを襲うとは。俺は鳴海じゃないんだ、しっかりしろ業斗童子。……ん?)
己の行為を恥つつ、何気なく窓の外を見たところで夕日が覗いていることに気がついた。
ああ、もうじき鳴海が帰ってくる時刻だ。
寝顔が名残惜しいが、かといってこのままにしておいては鳴海にこの姿を見られてしまう。
それだけは避けたい。
ライドウの為に?
――いや、これはただの執着だ。鳴海に見せたくないという、己が意地。
ゴウトはライドウの肩に足を掛けると、軽く揺すって声を掛ける。
「七綺、起きろ。そろそろ鳴海が帰ってくるぞ。」
黒猫の祈りと雛鳥の寝顔は、誰にも知られたくはない。
ああ、そうだとも。
ライドウに――七綺にすらも気づかれず。
そのまま黄昏に従って、全て夜の中へ沈めばいい。
欲を隠し、今はまだ陽だまりの中へ。
ゴウトは人知れず笑うと、願いを胸中に押し込めてこれから始まるいつもの日常へと帰っていくのだった。