黄昏を経て真夜中へ
◆02◆ 薄暮に惑い夜に啼く
その日、ゴウトは午後から独りだった。
いつも側に居るライドウはというと、ちょっとした買出しの為に外に出ていていない。
出掛けようとしていたライドウの背に、ついて行こうか?とゴウトが言えば、相手は笑って。
「いや、俺一人で間に合うから。それに、このところ遠出が多かっただろう? 折角の休みだし、ゴウトはゆっくりしててくれ。それに――」
「それに?」
空を仰いだライドウに、つられて自分も上を見上げれば後にライドウの言葉が続く。
「天候が崩れそうだ。この分だと、雨が降るかもしれない。」
「そうか? 俺には分からんが……。」
空はまだらに雲が多いというくらいで、ゴウトに雨の気配は窺えない。そこはやはり、葛葉ライドウ、とでもいうのか。
「しかし七綺、空が不穏ならば余計に心配だ。何かの前触れかもしれない。俺も同行したほうが、良いんじゃないのか?」
言いながらライドウの後ろをついて歩いてきたゴウトに、ライドウが視線を落として。
「そこまでの事じゃないだろう。……大袈裟だよ、ゴウト。」
ゴウトの過保護めいた言動に、ライドウが堪らず苦笑した。
それを見たゴウトも自覚したようで、ライドウの後を追うのを止めて言う。
「ふむ、そうか……そうだな。じゃあ、俺は言葉に甘えて休息でもとらせてもらうか。」
「すまない。出来るだけ、早く帰ってくるから。」
「道に迷うなよ、七綺。」
「ゴウト!」
「ははっ、冗談だ。行って来い。気をつけてな。」
「全く……じゃあ、行って来る。」
微笑を後に残して出掛けたライドウを、事務社の窓辺から見送りながらゴウトは考える。
初期の頃に比べ、ライドウは随分と柔らかい表情を見せるようになった。未だ人に関しての対応はぎこちないが、それは所詮、人の前でだけ。猫の身である自分には、関係の無いこと。
しなやかで柔らかくある真名の姿の青年が現れるのは、自分の前だけでいい。
――と、そこまで考えたところで苦笑した。
「葛葉の目付役が抱くべきものじゃないな。」
それでなくとも既に一度、ライドウに――七綺に、罪を落としているのに。
あの口付けを、七綺は知らない。
「俺は業斗だ。業斗童子なのだ。」
業を背負いし童。
そのような身上である者が、新しい雛鳥に手を掛けてどうするというのか。
「それに……七綺は人が苦手じゃないか。」
そうだ。猫の姿であるからこそ、今のライドウが――七綺が見られるのだ。
人の身では無いからこそ可能な特権。
だが……。
だが七綺は、随分と慣れて来た。ここの環境にも、人との接し方にも。
当初は鳴海にすら頑なであった青年は、今では普通に接し、普通に話し。
それどころか、時折ゴウトにだけ見せた微笑を、鳴海にも向けるようになっていて――。
「巣立つには未熟だ。まだだ。まだ――……」
俺の側から離れていくな。
離れて行こうとするな。
行かないでくれ。
――行かせるものか。
その想いが脳裏を過ぎった瞬間、ゴウトはビクッとなった。
「あ……今、俺は?」
俺は何を考えた?
自分の役目は、葛葉ライドウを一人前のデビルサマナーにすることだ。
目付役など要らぬほどに強く気高き者として、一人でも存分にやっていけるようにすることだ。
それなのに……なのに、今考えたのは、執着という名の己が欲。
「俺は、七綺が一人前になることを望んで……いない?」
自問するゴウト。
答えは誰からも返されなかったが、自身の心の奥で答えが放たれるのを聞いた気がした。大きく首を振ると、窓にごつんと頭をぶつけて思考を払う。
「ははは……鳴海に感化されたか? ……俺もまだまだ未熟、だな――」
そう一人で呟くと、ガラス越しに見える町並みに目を向けた。
ライドウが出掛けてから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
空はいつしか、雨が降り出しそうな曇り空へと変わっていた。
◇ ◇ ◇
――足音が聞こえる。
鈍色の空に不安を掻き立てられたゴウトは、窓辺から離れてソファの上でまどろんでいた。眠りについているほうが、余計なことを考えないで済むと思ったのだ。
その効果は幾らかあったようで、足音が聞こえたのと同時に目を開けると、外は黄昏が終わり夜になり始めていたところだった。
かつ、かつと足音が近づいてくる。
人の気配、それと話し声。
……話し声?
ゴウトの髭がぴくりと揺らめいた。ライドウが一人で帰宅したのならば、話す声など聞こえない筈。
――誰かと一緒なのだろうか?
漠然としか聞こえなかった話し声が、距離が縮まるのに合わせ、明確になってくる。
ライドウの声に応じているのは、聞き覚えのある声だった。
それも、自分があまり気に食わない相手の。
「あははっ! もう、ライドウちゃんてば可愛いんだから。」
軽薄な男が、馴れ馴れしくライドウの肩に手を回している光景が浮かんだ。ぎり、と歯を噛み鳴らすゴウト。
足音が、会話が近づき、ドアの前まで来て。
「たっだいま~! 大人しく留守番してたかい、ゴウト。」
開口一番、嫌な男の嫌な挨拶を聞く羽目になった。
ゴウトは、自分の想像していた通りにライドウの肩に腕を回している鳴海を思い切り睨みつけながら口を開く。
「七綺から手を離せ、愚か者っ!」
「ゴ、ゴウト!?」
突然の剣幕に、驚いたのはライドウだった。
目を丸くして鳴海とゴウトの交互に視線をやり、それからまたゴウトを見て言う。
「違うんだゴウト、これは――」
言いかけるライドウの言葉を、鳴海が掬う。
「――別に手を離しても良いけどね。ライドウちゃんが、床に倒れてもいいんならさ。」
「何?」
苦笑交じりに口を挟んだ鳴海の言葉を何かしらの挑発だと受け取ったのか、ゴウトが更に怒りで顔を歪める。見かねたライドウが、慌てて割って入る。
「落ち着いてくれ、ゴウト。鳴海殿は、不甲斐ない俺を助けてくれたんだ。」
「助けて? ……鳴海が?」
訊き返す声には、まだ疑念が混じっている。
「ああ。買い出しに出掛けた先の、銀座で――……痛っ……」
「大丈夫かライドウ? まあ、こんなところで立ち話もなんだし、一先ず中へ入ろうか。ああ、ほらほらゴウト、そこ退いて。」
空いた片方の手で追い払う仕草をすると、鳴海はライドウをソファの前へと歩かせた。済みません、と恐縮するライドウの声を聞いて、ゴウトは何だか苛立たしくなる。
だが、よくよく見てみれば、鳴海がライドウの肩に腕を回しているのではなく、ライドウがそうしているのだということに気がついた。
いや、これは――ライドウが鳴海の肩を借りている、のか?
「……何があった?」
少し冷静さを取り戻したゴウトが訊ねれば、ソファに腰を下ろしたライドウが答える。
「銀座で、悪魔に襲われた。……敵の名は、 オボログルマ。咄嗟にライジュウで撃退は出来たんだけど……相手の追突をかわし切れなくて。」
大事になるのは辛うじて避けたが、どこかで強くぶつけてしまったらしく、異界が閉じた後に残ったのは足に走る酷い痛み。思わず片膝をついてしまえば、そこを運良く、鳴海が通りがかったらしい。
「俺も丁度、用事を済ませて帰る途中でね。その時、道端にどこかで見たような書生くんが足を引き摺っているのが見えたからさ。ね?」
そう言って鳴海がライドウの頭を軽く叩けば、相手は鳴海を見上げ、帽子の庇を僅かに押し上げ目礼する。
「はい。お手を煩わせてしまいまして、申し訳ありませんでした。」
「あはは、良いよ。ライドウちゃんの力になれたのは、俺としても嬉しいからさ。」
「……感謝します。」
そうして、くすくすと笑い合う二人。ゴウトは置いていかれたような疎外感を覚え、きりりと歯を噛み締める。
「だから俺も付いて行くと言ったのに。」
そんな言葉をつい漏らしてしまえば、ライドウの足に包帯を巻いていた鳴海が顔を上げ、ゴウトを見て笑った。
「アハハ! お前さんが一緒だったところで、どうにかなるってもんじゃないだろ。」
「……っ! そんな事は――」
「じゃあ、聞くけど。仮にゴウトが同行している状態で、今日みたいなことがあったとしよう。それで? ゴウトはライドウに肩を貸せるのかい? ライドウを抱き上げたり、出来るとでも?」
「俺はっ……!」
「――お止め下さい鳴海殿! ゴウトも、止めてくれ。……俺のことで、喧嘩をしないでくれ。」
険悪な雰囲気が漂い始めたのを感じたライドウが、声を上げて二人を制す。表情は帽子の庇に隠れて窺えないが、その後に俯いたライドウを見れば充分だった。
「あー……ごめん、ライドウ。」
「……。」
鳴海は素直に謝罪したが、ゴウトは何も言わず。
「……俺は、もう寝る。――じゃあな、七綺。」
どちらの顔も見ずに背を向けると、黒猫は真っ直ぐに部屋から出て行ってしまった。
ライドウは黙って見送ることしか出来ず、ただ溜め息を吐いて呟く。
「どうして、ゴウト……。」
「ライドウ……。」
鳴海は鳴海で、ゴウトの心情について何か思い当たるところがあったらしく、ライドウに何事かを言いかける、が――……。
「ま、ここんとこ調査で走り回ってて疲れたんでしょ。――大丈夫だよ、ほっときな。」
「ですが、」
「いいからいいから。ね、今日は俺が夕食を作ってあげる。一緒に食べよ、ライドウちゃん。」
「は、はい……ありがとう、ございます……。」
結局は全てはぐらかすと、ライドウの肩を抱いて戸を閉めた。
◇ ◇ ◇
「……空々しいことをっ!」
ゴウトは嫌でも聞こえてくる鳴海の明るい声に顔を歪めると、その場から遠ざかるように早足で薄暗い廊下を抜けていく。開け放たれた窓があるのに気づくと桟へ飛び乗り、夜の中へ身を滑らせた。
雲は幾らか無くなってはいるが、それでもいつもに比べると今夜は昏い。
空を仰げば、鋭い形をした三日月が浮かんでいる。
「……っ、あああああ!」
ゴウトは唸り、思いきり叫ぶと宵闇の中を唯がむしゃらに走り出した。
屋根伝いに駆け、飛び渡り、目的も無く夜の闇を駆け抜ける。いま己の中にある考えを、想いを、全て振り払ってしまいたかった。
「俺は違う! 俺の想いは違う! 俺は、ライドウを――七綺を、ただ……!」
後の叫びは、声となっては現れず。
夜目にも鮮やかな緑眼を、気づかぬ内に雫で曇らせて。
黒猫は、そうして息が切れるまで走り続け――夜の中ひとり、声無く啼いた。