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黄昏を経て真夜中へ

◆03◆ 歪みの全ては、宵闇へ


ライドウのことは、自分が一番良く理解している、と思っていた。
ほとんど自惚れに近い自負。
それはいつしか歪み、周囲を見えなくさせていたのだろう。

いいや、結局は何も見ていなかったのかもしれない。
己は猫だ、というのを忘れていたのだから。
ライドウのことを知っているからとて、出来ることは限られている。
それに気づいたのは……気づかされたのは、あの日のこと。
あの時――ライドウが目の前で倒れた時、自分はただ見ていることしか出来なかった。
全ての現実を思い知らされたあの苦々しい日を、ゴウトはきっと忘れることがないだろう。

猫の身である己を強く呪ったあの瞬間から、きっと全てが歪んだのだ。


◇ ◇ ◇


その日は、朝方からずっと雨が降っていた。
鉛色の雲から落ちてくる大雨。霧で煙る町並みは薄暗く、鬱蒼としている。降る雨の勢いは激しく、大きな音を立てて窓硝子を揺らしていた。
外出には不向きな日。
だが、そのような時に限って面倒な用事というものはやって来る。
日頃に見られる、普通の調査程度の依頼ならば、別に無理をしてまでこの雨の中を出掛けなくても構いやしないのだ。
しかし運の悪いことに、舞い込んできた用事はカラスの使者からであった。

「カラスめ。何でまたこんな日に呼びつけるんだ。」
それでなくとも、最近各所で奇怪な事件が起きていて走り回っていたというのに。
「けれどゴウト、こんな日の召還だからこそ……何か、あったのかもしれない。」
愚痴る黒猫に対し、書生は苦笑しただけで不平は零さず、すぐさま身支度を整えだした。刀の紐を確かめつつ外套の下の武装を整えると、帽子を被りながら言い返す。
「使者殿の下へは俺だけが出向くから、ゴウトは代わりに留守を頼む。」
「……ちょっと待て、七綺。こちらを向いてみろ。」
「うん? どうした、ゴウト。」
外套を羽織っていたところを、ゴウトが呼び止めた。そうして振り返ったライドウの顔を、黒猫はじっと見つめる。
一見すると平然としていて何でもないようなのだが、時折零れる吐息に僅かな疲れが見えることが気になっていた。

「七綺、お前は疲労を癒す暇が無いままだったろう? この天候の中、そのような状態で志乃田まで赴くのは無謀じゃないのか。」
「そうだな、辛いかもしれない。でもゴウト、使者殿の要請は絶対だから。」
そうして穏やかに、けれどもはっきりとした口調で返されたのは葛葉ライドウとしての台詞。
本来ならば、その姿勢は見上げたものだと褒めるべきことなのだろう、けれど――。
「しかし七綺……――そうだ。何なら俺が代わりに、」
「有難う。けれど仲魔を一人……オオクニヌシを連れて行くから、その心配は要らない。」
猫の身であるゴウトに気を遣ったのか、相手の言葉を遮ったライドウは首を振り、やんわりと申し出を断った。それから玄関口に立てかけてあった傘を手にとり、肩越しに振り返って微笑する。

「これでも俺は、葛葉ライドウなんだ。一人で大丈夫だよ、ゴウト。」
そう言うと足を踏み出し、豪雨の中を出掛けていった。
すっかり逞しくなった雛鳥が、飛び立っていく。

「……”俺は葛葉ライドウ”……か。」
本当ならば、それは誇らしく思うところ。
けれどもゴウトの表情は浮かぬままでいて、窓を叩きつける雨音を聞きながら、どんよりとした空を無言で見上げるのだった。


◇ ◇ ◇


窓の外、暗い夜。雨の勢いはいまだ衰えず降り続いている。
ゴウトは一人きりで留守番をしていたが、来訪者も無い中でやることなど何も無い。ただ窓に叩きつける雨越しに覗く風景の中に、いつライドウが見えるのかと眺めているばかりだった。
無意味な時間が、過ぎていく。
飛びたった鳥が出戻ったのは、時計の針が七時に差しかかった時だった。

「……ライドウ、只今……戻り、ました。」
「ああ、お帰り七綺。ようやく帰ってきたな。しかし……随分と遅かったが?」
傘はあまり意味を成さなかったのか、その身体は随分と濡れそぼっていた。ライドウは肩で息をしながら外套や帽子を脱ぐと、髪から伝う雫を拭いつつ、口を開く。
「……ああ、ゴウトか。すまない、走って来たのだけど……――鳴海殿、は?」
「あいつか? あいつなら、まだ戻っておらんぞ。」
「そう、か……良かった。じゃあ、今から急いで夕食の支度をするから……待っててくれ。」
そう言って、ライドウは力無く笑いながら台所の方へ向かおうとする。
「待て七綺。」
冷たい雨で身体が冷えているせいか、表情に覇気が無いのがゴウトは気に掛かっていた。
「その前に、少し湯に浸かって身体を温めたほうが良いんじゃないのか?」
ゴウトの言葉に、髪についた水気を払っていたライドウが振り返って笑う。
「ん……。しかし、それでは更に遅くなってしまう。……着替えれば、大丈夫だ。」
「そうか? まあ……お前が、そう言うなら。」
微笑する余力があるのだったら、そう心配することも無いのか?
言葉が途切れ途切れなのも、まだ呼吸が整っていないからだと思っていた。

――”ライドウ”だから、大丈夫だと。
”雛”でなくなったのだから、もう自分が過保護になる必要はないのだと。
少し捻じくれた想いを抱き、それ以上の干渉を敢えて避けたゴウトのその行動が逆に裏目に出るのは――それから後、間もなくのこと。


◇ ◇ ◇


「たっだいま~。いやーひどい雨だね。焦った焦った。」
鳴海事務社の最後の住人が、ようやく帰宅した。あまり濡れていないところを見ると、車で帰って来たのだろう。
「能天気な大人が帰ってきたか。やれやれ。」
「ゴウト、そう邪険にするものじゃない。何か、大変な仕事だったのかもしれないし。」
相変わらず鳴海には冷たい言葉を吐くゴウトを、ライドウは微苦笑で優しく諌めた。台所から姿を見せて、生真面目に鳴海を出迎える構図は、いつもと同じ。

同じ光景だった。――そこまで、は。

「お帰りなさいませ、鳴海殿。御食事の用意が出来ておりますが、如何されますか?」
「あは、ありがとう。……って、ライドウ? お前さん、ちょっと顔色が悪くないか?」
「え? ……そうですか?」
帽子を脱いだ鳴海は、そう言うなりつかつかとライドウのほうへと歩み寄ると、相手の頬へ手を滑らせた。
「うん、ほら……何だか、頬も冷たい。」
「光源の加減じゃないのか?」
気安く触れるな、というような眼差しを向けて、ゴウトが会話に割って入る。
「それよりも鳴海、帰ってきたらまずは手を洗え。七綺に汚れが付くだろうが。」
「ハイハイ、そうだね。でも、今はちょっとそれどころじゃないよ。」
鳴海の表情にいつもの軽笑は無く、真剣な眼差しでライドウに話しかける。
「……ライドウ、熱は? もしかして、今日の雨に打たれた?」
そう言って鳴海はぐいと顔を近づけると、ライドウの額にも触れようとして手を伸ばしかけた。
「あ、あの鳴海殿。その前に、食事の用意を致します、ので――……!」
けれども、ライドウは不意の接近と接触に戸惑ってしまったらしく、台所へ戻ろうと身を引いた。

だが、その途中。
かくん、と――何かに躓いたようになり、よろめくライドウ。

「……っ? ……何、だ?」
「七綺?」
異変に気づいたゴウトが名を呼んでみせれば、ライドウは目元を押さえながら、ゆっくりと顔を上げて。
「ゴウ、ト……今、……何か……揺れ――……」
ライドウの言葉はそこから先、紡がれることは無かった。
不意に体勢を崩した――かと思うと、壁にもたれかかって、ずるずると崩れ落ちてしまったからだ。
「七――」
「ライドウ!」
ゴウトよりも早くに駆け寄ったのは、鳴海だった。
ぐたりとしたライドウの身体を抱き起こすと、その額に触れるなり叫ぶ。
「やっぱり熱があるんじゃないか! ゴウト、何でお前が気づかなかった?」
「俺は――……七綺が、大丈夫だと言うから。」
流石にたじろぐゴウト。いつもなら言い返せるのだが、今回に限っては――何も、言えず。
目を逸らしたゴウトに、鳴海は溜め息を吐くと呆れた顔をして言い返した。
「ま、ライドウちゃんも強情なところがあるからねぇ……仕方ないか。」
やれやれと肩を竦め、それからゴウトを一瞥して呟く。
「それに、体調の不良に気づいたところで、猫が看病なんて出来やしないしな。」
「なっ……!」
挑戦的な言葉に、ゴウトが絶句し歯を噛み鳴らす。毛を逆立てた黒猫を見下ろしながら、ライドウを抱き上げた鳴海は更に追い討ちを駆けるように言葉を繋おだ。
「事実だろ? お前はそれ以上ライドウに何も出来ないんだよ、ゴウト。」
それは、鳴海と対立する度に今まで何度かぶつけられた台詞。

いつもならば、すっかり慣れていた挑発の言葉。
日頃ならば、容易く聞き流してしまえるほどの言葉。
なのに、今回は妙に深くゴウトの胸に突き刺さった。

何も言い返せないことが、悔しい。
何も否定できないことが、口惜しい。
鳴海の腕の中にいるライドウを見つめるも、ゴウトは相手の言葉どおり何も出来ず。

「さあさあ、そこを退いた。俺がライドウを部屋まで運んでいくから。」
「……不埒な事を仕掛けるなよ。」
「あのねぇ、ゴウト。幾らなんでも、病人相手に何かするものかよ。」
鳴海は苦笑すると、軽々とライドウを抱き上げて部屋から出て行った。

「――糞っ!」
ゴウトは苦しげに呻いて歯を噛み鳴らすと、鳴海の腕に抱かれて運ばれるライドウの姿を思い返した。
だらりと垂れた腕。裾口から覗いた指先が白くて。
伏した雛鳥、その身体を支えてやることすら叶わず。
「俺は……何の為の目付役だ……っ!」
傍観しか叶わぬ己が身が、ただ歯痒く……ただ憎くて。

「人の身であったなら、俺とて……――お前など……っ!」
床に爪を立てて、怒りに身体を震わせながらゴウトは声無く呻く。
雨は激しさを増したようで、窓硝子を打ち付ける雨音が強くなった。
それは室内に残ったゴウトの声をも掻き消し、全ての音を重ねて消した。