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黄昏を経て真夜中へ

◆04◆ 真夜中に、爪をひと研ぎ


寝台の上。
眠りにつくライドウを、窓から仄かに覗く月光が柔らかく照らしていた。
しかしそれを見つめる黒猫の瞳は硬く、表情は緊張しているかのように強張っている。
薄暗い室内。寝台の上に力無く横たわるは、これまでずっと見つめ続けてきた雛鳥。

「……七綺。」
そっと名を呟き、ゴウトは側へ寄った。
ライドウの額には、鳴海が用意した水で冷やされた手拭が置かれている。熱のせいか、横顔が青褪めて見えた。
見ているだけで胸が酷く締め付けられるのは、やれることが何も無いせいか。ゴウトは、傍らでその寝顔を見つめながら、昼間の鳴海とのやりとりを思い返していた。
七綺の異変に、先に気づいた鳴海。
七綺が倒れた時、先に駆け寄った鳴海。

『お前はそれ以上ライドウに何も出来ないんだよ。』
確かにゴウトはライドウが倒れた時、何も出来なかった。
猫の身の上で出来ることなど何も無く、見ていただけ。
役立たず。
それは、今この時も同じだろう。
手を握って、安堵させることもできない。
髪を梳いて、慰めてやることもできない。
額に乗せてある手拭を取り替えることも、何かしらの飲み物をとってきてやることも出来ず。
ただこうして傍らに付き添い、黙々と意味も無く寝顔を眺めることしか出来ない、この現実。
「何が目付役だ。――この、役立たずめ……。」
「……ん――。」
己が情けなくて思わず唸れば、丁度その時、意識の戻ったライドウが目を開けた。


◇ ◇ ◇


「……、あ――。」
ライドウは――七綺は、気配だけで側に居るのがゴウトだと、直ぐに気づいたらしい。何の警戒も無い視線を向けて、口を開く。
「……ゴウト。」
そして薄っすらと弱々しい笑みを浮かべると、消え入りそうな声で話しかけてくる。
「今日は……すまなかった……迷惑……を、かけて……。」
「……莫迦者。別に、迷惑でも何でもないことだろう。いいから、あまり喋るな。余計に気を消耗するぞ。」
「……うん……でも……何だか、ゴウトの元気、が……ないように、見えたから……。」
「俺が……? ハハッ、まさか。」
雛鳥の癖に――敏い。
ゴウトは微苦笑すると、何でもない風を装いながら言い返す。
「何事もないさ、七綺。俺ならばいつも通りだ。お前の気のせいだろう。」
「……かも、しれない……な……。ああ……駄目だな、俺……は――……。」
「七綺、七綺。眠りに戻れ。もう、いいから。」
「しかし……、……いや、分かったよ。……でも――でも、もう少し、だけ……。」
「もう少し――何だ?」
「側に、居て……欲しい……。」
掠れた声で吐かれた言葉が、胸の奥を掴み上げる。
ゴウトの顔が僅かに歪んだが、けれど今の朦朧としている七綺には悟れなかっただろう。

――お前は何処まで俺を狂わせれば気が済むんだ?

「……。軟弱な雛鳥め。分かったよ、七綺。……もう暫く、側に居てやろう。お前の側に。だからほら、早く眠れ。――深く、眠れ。」
「ん――」
ゴウトの言葉を聞いたライドウは弱く微笑すると、言われるがままに、またゆっくりと目を閉じていく。
「……おやすみ、ゴウト。」
「ああ。……おやすみ、七綺。」
「――……。」
「…………。」
そうしてライドウが完全に寝入ってしまったのを確認すると、ゴウトは足音を立てずに寝台から降り、約束とは裏腹に部屋から立ち去ってしまった。
側にいると、何かしてしまいそうで怖かった。
何もしないでいる自信が、無かった。
だからゴウトは、部屋を後にした。そのまま七綺を置いて――置き去って。

『側に、居て欲しい。』
「……済まんな、七綺。」
あまやかな願いを口にした雛鳥は、ゴウトが側に居ると思ったままで眠りに落ちているだろう。
ゴウトは歯を噛み締めながら、薄暗い廊下を歩いていく。
静かな道を、一人きり。

見事な嘘を吐いた己が醜く、約束を反故にしてしまったことが、ひたすらに恥ずかしかった。


◇ ◇ ◇


夜の空は冷え冷えとしていた。
事務社、屋根の上。満月をじっと見つめながらのゴウトが呟くのは、どうしようもない想い。
「七綺。俺は、猫の身である己を今日ほど歯痒く感じた日はないよ。」
役に立てぬ獣の身体。見ていることしか出来なかった現実は、針山のように胸に刺さってしまって抜けない。
鳴海の冷笑が、響く。不甲斐ない己が情けなく、見返せない自身が悔しく。
「人の身であったなら、俺とて――……俺とて何か出来るのだっ!」
苛立ちが募り、身裡に生じるのは泥に塗れた己が欲。
ゴウトの視線が遠くなる。

「そうさ……俺が人であれば……お前に触れることが、出来る。」
そう言って嘲弄で口元を歪めたゴウトの瞳に、日頃温かく見守っていた面影は無く。
黒猫は月を見つめながら、昏い眼差し、暗い声で言葉を紡ぐ。
「俺の心を、お前は知っているか? ……お前は知ろうとしてくれたことがあるか? 俺の想いを。」
吐き捨てる想いが眠りに落ちているライドウに届く筈が無いと分かっていても、ゴウトは尚も月に向かって話しかける。
「あれは、俺の葛葉だ。……俺が育てた、雛鳥だ。」
呪詛に似た告白が、全てを歪めていく。

「俺の、七綺だ。……だから……俺が触れても、構わないだろう?」
月に問い掛けるも、当然ながら答えは返らない。七綺はそれに気づかぬまま、傍にゴウトが居るという安堵からか、穏やかな顔をして今頃は深い眠りに落ちていることだろう。
雛鳥はまだ、気づかない。
身体に爪が立てられる、その時まで、きっと。
夜の一時、傍観者は空に浮かぶ満月だけ。
月だけがただ静かに、緑瞳の黒猫が吐く言葉を聞いていた。