もこもこモコイ
20....Prisoner
ライドウ&ノクターン:Maniax Chronicle
「”人修羅くんはヒトなのよ”……か。」
呟くアスラ。
周囲に仲魔は居ない。誰の姿も無いのは、一人きりになれる場所にやって来たからだ。
誰にも何も言わず、傷だらけの身体を引き摺って。
「もう、ヒトじゃ……ないさ。」
自分の手に視線を落とし、アスラはもう一度呟いた。
カルパの深層。
謎の老人。
あれだけ疑いを抱いていた相手だというのに、最終的にアスラは彼から力を受け取った。
禍々しい力だと、解っていた。
それでも、全てを貫き通すその力が欲しかったのだ。
あの時は、これで護れるのだと思った。
けれど、今は。
得た力を試してみて――そこで、”本当”に解った。
これは……この力は”強すぎる”と。
モコイに打たれている時、相手を止めようと手を伸ばしかけて、ぎょっとした。
鋭い爪が出ていたのだ。
ニンゲンのものではなく、悪魔と同じ狂爪が。
だからアスラは手を下ろし、打たれることを選んだ。
怖かった。
その手が仲魔を傷つけてしまうことを。
恐ろしかった。
自分も仲間を引き裂いてしまうのではないかということが。
暴力による圧制。力による死滅。
ミフナシロの虐殺の光景が重なり、どうにも恐ろしくなった。
「……ハハハ……こんなの……ヒトなんかじゃ……ない。」
弱々しい笑みを浮かべたアスラは、そんなことをぽつりと呟くと、ゆっくりと腰を上げた。
今は、誰と会ってもまともに対応出来そうに無い。
仲魔を傷つけないという自信が無かった。
なにせ――あのライドウにまで手を上げてしまったのだ。
「……頭……冷やし足りないよな。」
もう少しだけ、一人になりたかった。
顔の筋肉が強張っているのを感じる。
笑顔が作れない。
感情を押し込めて、表面的に取り繕うことが、苦しくて。
仲魔の元に戻り辛い。
誰とも会いたくない。
ライドウからも離れてきて良かった、と心底思う。
あのデビルサマナーはとかく気配に敏感だから、きっと追いかけて来ていただろう。すれば、忽ちのうちに追いつかれて――きっと、連れ戻される筈だ。仲魔の元に。
ライドウは、強い。自分と違って。
ふらり、ふらりとアスラは目的無く歩き出す。
首の後ろが熱い。
胸がチリチリする。
ふと赤い空を見上げれば、煌々と輝くカグツチが見えた。
――ああ、今日は満月か。
何かが無聊の慰めを欲していた。
アスラは薄く笑う。
瞳が一瞬、血の色に染まった。
ククッと笑ったその声は、誰のものだったろう。
ふらりとした足取りで、乾いた大地を歩いていく。
アスラは既に、己が正気を失っていることに気づいていない。
何だか無性に暴れたくて――酷く傷つきたくて。
誰にも行き先を告げぬまま、そうして、まるで夢遊病者のように何処かへと歩き去っていった。
◇ ◇ ◇
冷たいコンクリート、床の上。
そこに横たわるものを見下ろし、男は笑う。
「随分と手こずらせてくれたものだな、少年。いや……」
そこで何かを思い出したように言葉を止め、冷淡な声で言いなおす。
「……この場合は、人であった名前で呼んだほうがいいのかね? ――アスラ、と。」
名を呼ばれても、少年――アスラは目を閉じたままで、何も言い返さず床に横たわっている。
額から流れる血はすっかり乾いており、短い髪にこびり付いていた。
口元に滲んだ血も、同じ赤。
くすんだ色をしたそれは、アスラの表情の蒼白さを際立たせる他は何の役にも立っていない。唯、その蒼白とした顔の白さを浮き立たせる飾りとなっているだけだ。
そんな死人のような相手の返事を、しかし特に期待した様子もなく、男は――氷川は、淡々と喋り続ける。
「それにしても、たった一人を捕縛するのに、私の配下が十数名も犠牲になるとはね……。優しげな風貌とは裏腹に、実に怖ろしい存在だよ君は。」
ククッと笑うと、靴を履いたままのその爪先でアスラの脇腹を軽く突付いた。
それは様子を見る為の行為だったが、相手はやはり動かない。
死んでしまったのだろうか、と氷川は眉を顰めたが、しかしよく見れば僅かに身体が上下しているのが見てとれた。
呼吸をしている証拠に氷川は冷笑を浮かべる。
どうやら生きているようだ。
「フッ。……そういえば、君はもうこの程度で死に至るモノではなかったな。」
嘲弄を浮かべた氷川は身を屈めると、アスラの髪を掴み上げて囁く。
「君に何があったのかは知らないが、独りで私の領域を歩いていたのは、無用心にも程があると思わないか?」
そしてアスラの髪を引き、顔をグイと仰け反らせれば、動作の勢いによって僅かに唇が開かれた。
「ともあれ、退屈せずに済みそうだ。」
氷川は喉奥で笑うと、アスラの唇に自らのを重ねた。
すれば血の匂いが鼻先を掠め、口腔内に血の味が広がる。
「まるで生贄だな。」
氷川は、彼と初めて会った時のことを思い出す。
魔人。
鬼衆。
業鬼。
混沌王。
通り名は多々あれど、恐れ慄かせる名前は一つきり。
――「人修羅」。
悪魔を畏怖させる存在が、まさか人間の少年だとは当初は思いも寄らなかった。
東京受胎を生き残った、「運の悪い」存在。
あれは受胎前、東京が壊れる少し前の時間。
病院の地下、暗い一室で彼と出会った。
担任である「先生」の見舞いに来た、生徒の一人。
平凡な少年。
彼は何も悪くは無い。
強いて言えば、そう――運が悪かった。
世界が崩壊する前に臨んでいたその静寂の中に、突如飛び込んできた少年。
せめて、滅びを見る前に死の床に就かせてやろう――だが、氷川の殺意を前にしても、彼は逃げ出さなかった。
初めて見たであろう異形のもの――悪魔を目にしても、怯む様子も無く、むしろ立ち向かわんとして身構えたあの姿勢を思い出して、氷川は微かな苦笑を浮かべる。
この少年は、”先生”を慕っていたのだろうか。
それとも、”先生”のほうが彼に好意を寄せていたのか。
――その彼女が東京を崩壊させる原因となった受胎を起こした張本人だと知ったならば、彼はどうしていただろう。
それでも立ち向かってきたか、この運命に?
コトワリが支配する世界に於いて、唯一人コトワリを啓かない存在。
少年は、かつてニンゲンという弱い生き物だった。
それが今は、たった一人で何十もの手下を打ち倒すまでになるとは。
「強くなったようだな、少年。」
青褪めたアスラの顔に嘲弄の眼差しを向け、氷川は呟く。
「だが……心は弱いままだ。」
そう言って吐き捨てたものの、髪を梳いた手は何処か優しさを感じさせるものだった。
それは戯れか、それとも哀れみか。
しかし、捕らわれて眠るアスラには何の関係も無いことだった。