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もこもこモコイ

26.渇えて望みは

ライドウ&ノクターン:Maniax Chronicle


靴音が聞こえた。
目を開ければ、薄い笑みを浮かべた男がそこに居た。

「喜べ少年。君の仲魔が救出に来たようだ。」
男は鎖に繋がれたままのアスラを見下ろすと、視線をゆっくりと顔から首、胸元へと滑らせ、そして前を寛げられたズボンに目を留めたところで口端を上げた。
「ああ、そのままではどうにも具合が悪いだろう。」
そう言ってアスラの側にしゃがみ込むと、ズボンの留め具をパチリと閉じて笑う。
「これで君に何があったのか、誰にも知られまい。」
気遣う行為。
だが、笑っている様子を見る限りでは、それは真実ではない。
アスラは半分ぼんやりした瞳で氷川を見つめ、口を開く。
「……何を……考えて……」
悪寒。
ぶるりと身を震わせれば、男――氷川が、哂う。

「渇いていないかね、少年。」
「……っ!?」
喉が渇いている、とかそういう言い方では無かった。
アスラは息を飲む。
何が言いたい。
何を明かしたい。

「渇いてなんか――無い……!」

否定の声は、けれど思った以上にずっと弱々しいものでいた。
最初の頃は、泣きたいことが多かった。それからもずっと、泣きたくなることばかりだった。
だから力を手に入れて、泣かないようにした。
力を手に入れてから、泣くことなど無くなった……筈だったのに。
俯くアスラ。だが不意に氷川が手を伸ばし、その顎を持ち上げた。
そしてゆっくりと顔を近づけて、囁く。
「餞別だ。――アスラ。」
「……ん……っ!?」
今更、唇を重ねられても驚くことはない。その瞬間はとっくに過ぎている。
アスラが驚愕に目を見開いたのには、別な理由があった。
「んっ……ぐ、……っ!」
舌が――いいや、それとは違う何かが喉の奥に滑り込んできた。
異物。
毒かと思ったが、しかし何事も無かったかのように口元を拭って再び距離を置いた氷川が語ったのは、毒以上に悪質な姦計だった。
「研究の遺物品だ。ニヒロ機構を潰してくれた君に進呈しよう。」
「う、っ……げほっ……何を、飲ませ……た!」
咳き込むが、異物はあっという間に喉を通り抜けてしまって吐き出せない。
胃の腑に落ちる錯覚がしたのと同時に、軽い頭痛が起き始めた。
熱を出した時のような眩暈に眩みながら、しかしアスラは気丈に振舞う。
「毒、か? ……ははっ……こんなものじゃ、俺は死なない――死なないぞ、氷川っ!」
頭痛と吐き気に耐えつつ虚勢が如く振舞って叫んだアスラに、しかし氷川は何処までも嘲弄を浮かべて淡々と告げるのだ。
「ああ。毒などではないさ。そんなもので君が死ぬわけも無い。」
酷薄とした笑みが歪む。

「……なあ、アスラ。君は――」
静寂の中で囁かれるは致死性の毒。

「――君は、ヒトが溶けたマガツヒを飲んだことがあるかね?」
「なっ……!」
脳裏に浮かんだのは他の誰でもないたった一人。
ヒジリ。
アスラと同じ、東京受胎を生き残った「ヒトだったもの」。
好奇心が、知識欲が、強すぎた男は、いつしかヒトとしての領分を超え、踏み越え、遂にはアスラを罠に嵌めようとした。
だが彼の目論見は失敗に終わる。
罠に掛けようとしたが、逆手を捕られて勇の罠に嵌り、マガツヒに落とされ――そうして、溶けて消えていったヒト。
それを、その欠片を。

「まさ、か……っ」
飲み込んでしまったのか、あのヒジリが溶けた水を。
呑み込んでしまったのか、あのヒトを溶かした赤を。

ヒトを――遂にヒトを喰らってしまった……! 

「あ、あああああ……」
悪魔に。
正しく悪魔に。
境界が、崩れる。

「ひ、かわ……、あ、あぁ……こんな……――氷川ああぁっ……!」
慟哭の瞬間、まるでストロボを焚いたようにアスラの意識は落ちた。
マガツヒの底に消えたヒジリと同じく、何もかもが昏い処に沈んで――堕ちていく。


◇  ◇  ◇


足音が聞こえた。
一人……いや、二人……ともかく、一つ以上の足音が、自分の背後で止まった。
そのままぼんやりしていれば、とびきり明るい――明るさを装ったような声がした。

「人修羅くん、助けに来たッスよ!」
「……。」
「あ、鎖で繋がれちゃってるのネ……待ってて。今、サマナーくんにどうにかしてもらうッスから!」
モコイはそう言って、自分を此処まで引き連れてくれたデビルサマナーを呼ぼうと、踵を返そうとした。
――その時だった。
モコイの背後で、ばきりと何かが砕ける音がしたのは。

「……人修羅くん?」
何だろうと思い振り返れば、相手は――アスラは強引に鎖を引き千切ったらしく、天井から伸びていた鎖が壊れ、揺れていた。
その手首には擦過傷が付いている。しかし、モコイは彼の指先にまでは注意を払わなかった。
「モー! 無茶しちゃダメッスヨ! あ、でもナイスタイミングだよ人修羅くん。ボク、ぷち回復なら出来るっスから!」
てててて、といつものように走り寄り、背を向けた相手に手を伸ばしながら話しかける。
「ね、腕見せて。ボクが傷を治してあげ――」
「……ウルサイ。」
「……え?」
冷たい声だった。
それは喧嘩別れした時よりも更に低く、震えるほどに冷たく、モコイの動きを確実に止めた。
「ひ、人修羅……くん?」
まだ怒っているのだろうか。
モコイは涙目になりながら、それでもおずおずと手を差し伸べて言う。
「なに……どしたの? 勝手に出てきちゃったから、怒ってるスか?」
「……。」
あと少しで触れることが出来るというのに、殺気めいた気配に圧されて近づけない。
「で、でもー、ボクひとりじゃないッすよ? ちゃんと、サマナーくんも一緒、だし……」
それでも意を決し、モコイが前に足を踏み出したときだった。

「――ウルサイッッ……!」
「――あきゃっ!」
片手がモコイを一閃した。
大きく後ろへ吹き飛んだその身体は壁にぶつかり、モコイは身体の何処かが軋んだ音を聞く。
「う、うぅ……ひと、しゅら、くん……。」
彼の怒りは此処まで酷かったのか。そこまで嫌われてしまったのか。
「……ま、まだ……怒ってる、ス……か?」
モコイはよろめきながらも痛む身体を起こし、彼の背中に話しかける。
「ひ、人、修羅……くん……ボク……ボクは……」
ああ、謝り足りないのか。
なら……謝らないと。
たくさんたくさん、ゴメンナサイを――。
ふらふらとした足取りでアスラに近づきながら、モコイは声を絞り出す。

「……ソーリー、なの。ゴメン、ナサイ……ゴメンナサイ、人修羅くん。ボク、怒られる覚悟はしてきたッスよ。……だ、だから……――だから、ねえ……!」
こっちを向いて。
お願いだから。
目を合わせて。
どうか。
「ネェ、ふ、ふぇ……ひ、ひとしゅ、ら、くぅ……ぅうううゴメンナサイ――……!」
我慢できなくなり、モコイは遂に泣き出してしまった。
だがそれでもアスラは振り向かず、背を向けたまま沈黙している。
それでも近づこうと、モコイが前に身体を傾けたところで背後から声がした。

「その行動は、否。……速く、アスラより、離脱を。」
「えぐっ……サマナーくん――?」
振り向く間もなかった。背後の影から手が伸びてきた――かと思うと、それは素早くモコイを引き寄せ、アスラから引き離したのだから。
「っ!? ヤーー! ボクは人修羅くんの傍に居るノーーーッ!」
宙に浮いた体。距離が遠ざかる。
モコイがじたばた暴れて抵抗すれば、頭上の声は何処までも冷ややかに、そして静かに言葉を返した。
「許可、出来ない。今のアスラは――危殆、だ。」
「キタイ?」
ライドウがモコイを抱き上げて後ろへ飛んだのと、そこを何かが一閃したのは同時だった。
モコイが息を飲み、ライドウを見上げる。
「な……なんスか、今の?」
「断裂が一閃だ。……アスラの。」
距離をとったライドウは、視線をアスラに留めたままモコイを地面に下ろした。
ビリビリと空気が振動する。
辺り一帯に漂い始めたそれは――殺気? 

「……ナニ? 何なノ? ちょっとサマナーくん、人修羅くんが何したって……!」
モコイがそこで前方に向き直れば、赤い光の煌きが見えた。

これは――誰? 

「ひ、と……人修羅くん? コレ、何、が……」
呆然と立ち尽くすモコイの呟きに、刀に手を掛けたライドウが答えを示す。

「アスラは、狂気に……満月が見せるものと似て在る、が……それ以上に、深い。故に、声は、届かない。」
すれば、ライドウの言葉を肯定するように視線の先でアスラが哂う。
それはとても綺麗な微笑みだったが、モコイが望んだものでは決してなかった。