もこもこモコイ
28.Tearing Love
ライドウ&ノクターン:Maniax Chronicle
力を手に入れれば、この悪夢が終わるのだと思っていた。
この力を使えば、元の世界に変えれるのだと――元の世界が帰ってくるのだと、信じていた。
信じるしかなかった。
前に進む為には。
……信じるしかなかったのだ。
後ろを振り返らない為には。
しかし、力を得る毎に何かを失っていくのを感じていた。
けれどこの悪魔の身、何を失おうとしているのかは分からず――ああ、これ以上、何を失うというのだろう? だから考えるのは止めにして、ただ、前を進んでいった。
それしか知らないレミングスは、そうして崖から落ちてしまうまで気づかない。
力の入手と同時に喪失の大きさに気づいた時には、もう手遅れだった。
何が欲しかったのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
この爪では触れることが難しい。
この力では何もかも潰してしまう。
これでは誰にも触れられない。
これでは誰にも――触れてもらえない。
不意に静寂を切り裂いて、氷川の言葉が甦った。
忌まわしいあの時間に、呼び戻される。
◇ ◇ ◇
「抵抗しないな。もしや君は、こういう展開を望んでいたのかね?」
耳元でそう囁かれた時、不覚にも反応してしまった自分がいた。
嫌悪ではなく。
憎悪ではなく。
――その感情を、けれど決して認めることは出来なかった。
一瞬理解できず、戸惑い、動揺する。何が起こったのかわからないような顔をして相手を見上げていただろうことは容易く想像できた。相手が――氷川が、酷く意外そうな顔をしていたのだから。
かと思うと、次の瞬間には可笑しそうに忍び哂って――まるで狩人のような瞳でアスラを見据え、言葉を零す。
「ああ、やはりそうか。」
何かを見つけたらしい彼は、それから此方に手を伸ばすと、不意に髪を撫でてきた。
ますます息が詰まり、どうしていいのか分からなくなって拒絶の為に押し返そうとするのだけれど、どうしてか力が入らない。
その様を見て氷川はまた低い声で哂うと、今度は髪を掴んで此方の顔を上向かせた挙句に、こう言った。
「君は、飢えていたのだな。」
指先が、唇をなぞり上げた。
瞬間、感じたのは警鐘。
――口を開いてはダメだ、と思った。
言葉を紡ごうとして口を開けば、其処から覗かれてしまうと思ったのかもしれない。
馬鹿げた考えだ。
相手はヒトで、読心術も何も使えるはずが無いというのに――なのに、その時は。
氷川という男が、どうにも恐ろしく感じ、腕の中から逃げようともがいてみたのだけれども、逆に両手を後ろ手に捻り上げられてしまって。
耳元で、囁き。
「私の元に降れ、少年。そうすれば君の望みを――その渇きを、癒してやろう。」
氷川の顔が近づく。
髪を掴む手が、更に此方を仰け反らせるようにして上向かせる。
逃れられないその距離から、否応無しに聞かされるのは静かな言葉。
「私に忠誠を誓うのだ少年。いや――」
――呼ぶな!
だが叫びは形にならず、氷川の言葉だけが紡がれる。
「愛されたいのならば服従するのだ――阿須羅。」
ヒトであった頃の名前は、思った以上に悲しくなるほど懐かしかった。
知らず、涙が頬を伝う。
自分の名前を呼んでくれたヒト。
乾く。
乾いていく。
飢えて。
餓えて。
ああ――堕ちていく。
いいや。
いいや。
とっくに堕ちていたのだ。
力を受け入れたあの時から、この身は真の悪魔へと成り果てて――最早、ヒトには還れないというのにまだ無様に縋りついているから、こんな目に遭うのだろう。
欲を出しすぎたルポライターの最期を思い出す。彼はマガツヒに落とされる間際、此方を見て笑った。
『ま、せいぜい頑張れよアスラ。』
俺は、彼を――彼が溶けた赤い水を喰らったのだ。
胃の腑から吐き気が込み上げる。
◇ ◇ ◇
声なき笑いを浮かべ、アスラは相手の顔めがけて腕を横に凪いだ。
渾身の力が込められた爪の一撃。ライドウは寸でのところでそれをかわすと、袈裟懸けに刀を斬り落とした。
アスラはそれを避け損ねたのか、赤いものがパッと散る。
「――人修羅くん!」
斬られた肩から流れ出す血が腕を伝って地面に落ちるのを見て、モコイが堪らず悲鳴を上げる。
だがアスラはその赤に目を細めると、嬉しそうに――酷く嬉しそうに口端を吊り上げ、狂気を孕んだ瞳でライドウを見つめ返した。
片手を掲げれば、剣の形をしたものが現出する。
その死の剣が巻き上げるのは、連鎖の衝撃。
「あれは――七綺、避けろっ!」
デスバウンドだと気づいたゴウトが叫んだが、アスラはそれすらも読んでいたようだった。
軽くステップを踏んで前へ飛ぶと、後ろへ飛びずさった書生に間髪置かず第二撃を放つ。
「複槍が、驟雨……全ての回避は――不可、か。」
先ほどの地の攻撃と対極するかのように今度は空より殺意が降り注ぐ。不規則な軌道はライドウの足や手を掠め、血と砂埃を飛び散らせた。
辺りに立ち込める、混沌と殺意。臭気と狂気が拍車を掛けるのか、彼らの戦いはどんどん激しいものになっていく。
「しゅ……ら、くん……」
血が流れるたびに、何かが失われていくような錯覚がする。
このままじゃ何もかもがすっかり駄目になってしまう、と呼びかけるものがあった。
「……っ、人修羅くん……っ!」
気づけばモコイはその闘いの渦中に向かって走り出していた。
「なっ、莫迦者っ……――戻れっ! モコイっ!」
ゴウトの怒声が聞こえたが、後で怒られれば済むことだと思った。
そうだ、今はちっとも怖くない。
そうだ。目の前で変わっていくヒトに比べたら、何も怖くなど……!
「……モコイ。」
気配の接近に、ライドウが振り返った。
一瞬の間隙。狂気が見逃す筈も無い。
アスラは哂い、ライドウ目掛けて狂爪を突き出す――その空間に、無我夢中で飛び込んだものが居た。
「こんなのは駄目っスよ! ……ダメダメなんスよ人修羅くん!」
アスラの片腕にしがみ付き、モコイは声を張り上げて呼びかけた。
無謀な行動は蛮勇、だが純粋な必死さは勇敢。
「ボクが悪かったカラ……正気に戻ってヨ! ねぇ……!」
これ以上、大好きなヒトに傷ついて欲しくなった。
これ以上、落ちて行かないで欲しかった。
真たる深みに堕ちてしまえば、きっともう――戻れない。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! ソリーなの! ボクがゼンブ悪かったノ!」
腕に纏わりついた緑色に、しかしアスラの視線が向くことはなく。
「ねぇ人修羅くん! こんなのもう止め――」
「――ウルサイ。」
獣のような低い声で唸り、ギラついた光を瞳に宿した少年は、最早ヒトのものではない力で腕を横に振った。
「ひ、と――しゅら、く……――……!」
まるで手についた汚れを払い落とすように、ソレを払った。
そこには心も想いも無く。
腕に走る激痛と共に、モコイの身体は宙へ舞い、そして――遠い、地面へ。
「モコイッ!」
「う……あぅ……」
モコイは全身に鋭い痛みが走るのを感じた。ゴウトの駆け寄る足音を聞きながら、それでも身体を起こそうと顔を上げた。
踊る狂気。
走る凶器。
目の前の狂騒は、まだ終わりそうに無い。