もこもこモコイ
30.二つの祈り
ライドウ&ノクターン:Maniax Chronicle
――その唇からは、慟哭が溢れ出していた。
言葉になっていない悲鳴。
喘ぎ、呻き、震えているその姿は、まるで瀕死の獣。時折ゆるゆると首を横に振る動作を繰り返しているのは、何の為だろう。
否定しているのか。
振り払おうとしているのか。
それとも――……。
「お前は悔いているのか、アスラ……?」
ゴウトが呆然と呟けば、モコイの身体に包帯を巻きつけていたライドウが言う。
「……否。少し、違う。」
「む?」
「……貴方に、異を唱えるのでは無い、が――」
巻き終えた包帯を横へ置くと、ライドウは片膝を着いたままゴウトに向き直って。
「届いた、だけだ。モコイの心が……深層に。」
「それはつまり……声を聞いたと?」
「ああ。」
見上げる黒猫に、ライドウは小さく頷き、静かな声で答える。
「アスラは、狂気より脱し……今は、慟哭の内に在る。ならば……」
「――正気に戻せる、ということか。」
ゴウトの言葉にまたもやライドウが頷く。今度は先程より確かに。
「現時に於いて、未だ仲魔が召喚は……不可。新しき影は、アスラの狂気を逆立てる。」
「手は借りられん、か。だが七綺、モコイの容態は深刻だぞ。これ以上、戦いが長引けば――」
「――”これ以上”は、無い。……貴方は、モコイと此処に。」
ライドウはゴウトの側に横たわるモコイの赤く滲んだ包帯にそっと手を置くと、静かな声で話し掛けた。
「モコイ。お前の傷は、制止が約を遅延させた、俺の咎……だ。」
白い指先が、赤い跡をなぞる。
「蛮勇……だが、純然たる行動に、俺は恭敬する。」
そうして黙礼し、ゴウトに後は頼むといった視線を送ってから立ち上がった。
振り返れば、項垂れるようにして上体を前に傾けている少年の姿がまだそこにある。
涙を流し、震えて。
声無く、戦慄いて。
「……アスラ。」
ライドウが名前を口にすれば、電気に触れたかのように少年がビクリと顔を上げた。
瞳を何度も瞬かせ、ライドウを見つめる。その間にも、涙は頬を伝い落ちていた。
「……。継ぎ名に賭けて、俺は、お前を止める。」
言って足を前に踏み出せば、アスラがさっと身構えた。
そこへ、ライドウは無言で歩みを進める。
モコイのように、何の迷いも躊躇いも無く――真っ直ぐに。
◇ ◇ ◇
それは場の空気に静を混ぜ込み、静寂のような沈黙をもたらしていた。
アスラは自分が泣いていることに気づいていないのか、目の前の”敵”――ライドウに、ただギラギラした殺気をぶつけ、睨みつけている。
だが、その身体は依然として震えたままで――怯えているのか――ライドウが一歩前に近づく度に、じりじりと後ろへ下がる。
「アスラ。……声を、聞いたのだろう。」
静かに語りかける声は冷たくもよく響いて、獣の後退を引き止める。
「……血は、既に多く流れて、在る。……そのままでは、塗れて消える。……アスラが。」
足音無く前に歩を進めた書生を見て、アスラは再び唸り、身構えた。
「――ッッ!」
収束する殺意。
整わぬ息のままにアスラが両腕を身体の前で交差させれば、足元で地鳴り。
「今度は晩餐かっ……――七綺! 集中を断ち切れ!」
相棒の助言に、けれど書生はただひたとアスラを見据えたまま、動かず。
揺れが酷くなる。
走る緊張。切れかかる糸。――その意図の上に、ライドウは氷の声を滑らせた。
「其れが、アスラの望みか。」
その一言で、揺れはピタリと止まった。
アスラは瞠目し、氷の声の主をまるで初めて見るかのような目つきで眺める。
その表情に狂気は無い。涙は既に引き乾き始めているが、その黒瞳はまだ濡れていた。
誰も口を開かない。
静止した空間、張り詰める空気。
その中で、動きを見せたのはライドウだった。
僅かに身体が揺らいだ――かと思うと、次の瞬間にはアスラに向かって疾駆していた。
足音無く駆け、距離を一気に詰める。
素手で挑むのか? 今の人修羅に。
「――自殺行為だ!」
ゴウトが怒鳴る。
飛び込んでくる贄。
アスラは目を細めると、唇を三日月形に吊り上げた。そしてまたあの歪んだ笑みを浮かべると、同じように突撃する。
突き出した右腕が先ず狙ったのはライドウの目。
闇のような深淵さを持ちながら、黒曜石が如く純然と輝いているのが許せなかった。
どうして光が在る。
どうして光を持っている。
暗闇の中の松明。
孤独の海に溺れることも無い導。
いつも探していたのに見つからなかった。
漆黒に塗れていながら、どうしてそうも――!
「……俺は、虚無でしかない。」
攻撃をかわし、眼球を抉ろうとしたその爪を掴んでライドウは呟いた。
獣を捕まえた氷の鎖。
至近距離にて相手を見つめ、いつものように抑揚の無い声で答える。
「羨望して在るのは、俺の方だ……アスラ。」
何の感情も宿っていない瞳で見つめて言葉を吐けば、アスラの視線がまた揺らぎだした。
唸り、ライドウの腕を振り払おうと身を引くのだが、動けず更に戸惑う。その様子を無言で見詰めていたライドウが、口を開いた。
「無駄、だ。……縛鎖の式を、敷いた。……アスラ。何故、戻らない。」
少年は応えず、ただ荒い呼吸をしてライドウを睨みつけている。
怯えた瞳は依然として真紅。
――不自然な紅。
不意に、ライドウがすっと目を細めた。
そのままアスラを引き寄せると、白い手を頬に滑らせて独白を零す。
「呪い……濁し穢れが、身裡に在るか。」
「……っ!」
吐息が掛かる距離を嫌ったのか、アスラがもがき始めた。
それでもライドウの力は緩まない。その腕を掴んだまま顔を近づけると、氷の声で語る。
「暫し静止を、アスラ。……死に落とすものでは無い故、どうか。」
何かを感じたのだろう、アスラが青褪めた――かと思うと、低い声で唸り、雄叫びを上げた。
結界に響いたのか、それは部分的ながら硬化を解く。
アスラは辛うじて動かせるようになった左腕を振り上げると、目の前の空間を大きく切り裂いた。
彼の者の腕を押さえているが為に、ライドウの両手は自由ではなく。
――ぱっと、赤が散った。
「七綺っ!」
遠方より黒猫が叫ぶ。
書生は右頬に刻まれた傷跡から生暖かいものが流れるのを感じたが、それでも無表情に再度、結界を敷いてアスラの動きを固めると、距離を詰め直して囁きかける。
「加減はする、が……痛みの咎は、後程受ける。」
「……ッ!?」
不可解な氷の言葉と同時に、首筋に痛みが走った。
瞬間、眩暈。
全身を脱力感が襲う。
消失感というのか、それとも喪失感といったほうがいいのか。とにかく緩やかな痛みと、それだけではない妙な感覚が交互に混ざり合い、次第に力が抜けていく。
赤く歪んだ視界が揺れて、揺らめいて――。
『ダイスキっスよ、アスラくん。』
――気づけば狂気は抜けていた。
至近距離に凍りついた美貌を見つけ、アスラは瞬き一つ。
「……ら、い……ドウ……?」
どうにか己の意思で喋ることが出来たが、そこまでだった。
霞む意識。己を抱擁する書生を見つめていれば、相手がその背に手を添えた。
そして彼のみに微笑を返して、応える。
「――おかえり、なさい。」
どこかぎこちない、けれどはっきりと聞こえた挨拶に、アスラも少しだけ笑みを浮かべる。
「は……はは……た、ただい……ま――」
『オカエリナサイ、アスラくん』
昏睡の間際、聞き覚えのある声を聞いた気がした。
ああ、今度は覚えている。
「……ごめん、な……モコ……イ……」
言葉と共に涙を流し、アスラはガクリと意識を失った。その身体を抱き止めたライドウが、まるで子供をあやす母親のように彼の頭を撫でて呟く。
「……何も、消失が無くて……良かった。」
小さく小さく吐かれた言の葉は、駆け寄ってくるゴウトの声と足音に掻き消されて誰にも聞こえることは無かった。