メサイアの詩
│02│ The Hounds of Tindalos
――それが清めのしるしとなるのなら、幾らでも受け入れよう。
但し、冤罪のほうは全くに受け入れることはしないが。
「うっ、あ、……ぐぅ…っ!」
手の甲に感じる強い痛みに、アスラは堪らず声を上げる。全ての攻撃を跳ね除け、痛覚すらもを遮断する冷厳たるマガタマを飲み込んでいるこの身は今、その恩恵を無くしているらしい。
――まるで普通のヒトのようだ。
歯を食いしばり、ともすれば意識を失いかける痛みの中で、アスラはそんなことを考えた。
少しだけ喜びに震える。擬似的ながらもヒトのようになっている今の我が身に。
「はっ、はは……っ、ぐ……はあ、はあ、はあ……っ」
笑いたいのに、笑えない。蜜の毒に思考を侵され、不自由であるせいか。
荒い息の中、痛みを受けている手の甲へと視線を向ける。仰向けになった状態で見上げるその頭上、己の手に深々と突き刺さっているのは真紅の釘。
それも大きな釘だ。
畳か布団を打つのに使っていた、五寸釘を思わせる程に遠目からでも目立つ大きな鉄杭。
――それはさながら、磔にされた救世主に似ていて。
気付いた瞬間、ああ、とアスラは苦く笑う。
「……こういうのが、好きなのか。」
意識のぐらつきが少しだけ落ち着いた時に、そんなことを言ってみた。
すればコチラに圧し掛かる影、睥睨していた金の瞳を細めて哂う。
「お前の趣向に合うのなら、我が趣味としてやってもいいが?」
「ハッ。ご冗談を。」
アスラは冷笑で返し、その瞳に真紅を宿し始める。
「受胎告知を受けたのは俺じゃないし、十字架を背負って歩く趣味も無い。」
世界を壊したのは、俺じゃない。
滅亡を望んだのは、俺じゃない。
なのに、我知らず落とされたこの運命はあまりにも馬鹿馬鹿しく、しかも堕天使の王が執拗に追いかけてくる始末。
これが冗談だったらと、何度思ったことか。……そうして夢見た記憶は、既に遠い場所に置いてきたが。
――懐古は止めだ。
アスラは直ぐに我に返ると、呆れた声で吐き捨てた。
「悪趣味だ。ほんと、悪趣味すぎる。――貴方は堕ちる前もそんなのだったのか?」
つい地が出てしまったが、構うものか。鼻先で笑い、目の前に居る金色の天使を睨み付けれてやれば、白い手が伸びてきてアスラの首に絡みついた。
「かつては人の子の分際で、よくぞそこまで我を愚弄出来るものだ。」
地獄の底の氷の声が、アスラの非礼を咎める。
喉を絞めあげる手は熱く、煉獄の炎さながらに皮膚の下を焼く。
零度と灼熱。
彼の背後を見れば、何とも美しき金色の羽が三対六枚。本当は十二枚あるのだろうが、力を抑えているのか”見せ惜しみ”でもしているのか、目視できるのはその枚数のみ。
「このまま括り殺してやろうか、人修羅よ。」
「ぐ……」
ぎり、と灼熱の枷が肉を絞める。周囲の気温はこれ以上無いくらいに下がっており、息をする度に肺腑が凍えて仕方ない。
顔を顰めたアスラを暫く眺めていた神が、不意に口元を緩めて囁きを落す。
「慈悲を乞うてみろ、アスラ。すれば恩赦の欠片を与えてやろう。」
「……じ、ひ?」
「そうだ。無礼を嘆き、非礼を詫び、我が前に平伏すればお前の罪を赦してやろう。神は常に寛大だからな。」
「俺の――罪?」
好き好んで選んだ運命ではないのに?
並べられたコトワリは、どれも望むものではなかったというのに?
そんな世界でどうにか生き抜き、運命を選択させられ、ようやく掴み取った先に待っていたのがこの未来だというのに。
「は、は、は。」
可笑しくて笑えてくる。
この悲劇はもはや喜劇にしかならず、今もなお望みを叶えてくれそうなど無いのに。
ああ、一度足りとてコチラの願いを叶えてくれたことは無かった。
なのに、世界は謝罪ばかりを求めてくる。
時には暇潰しに踊れとさえ命じてくる。
「は、ははっ。――あはははは!」
磔のメシアは、その身を業火で焼かれながら何を思ったのか。
俺だったら、笑った。
笑って、笑って、笑い倒した。
「痛みで気が触れたか? アス――」
嘲弄の君が、唐突に笑い出したアスラを見て訝しみ、その首を絞めていた手の力を僅かに緩ませた時だった。
ごきり、と。
嫌な音が、した。
音のしたほうへ視線を滑らせた神が見たのは、悪釘にて縫い留められていた手が地面から離れた光景だった。
――鈍い音は、釘が砕けたのではない。血に濡れた手の平を口元へ寄せた悪魔が、凝然としている神を認めて――哂う。
「言っただろう? 俺の自由は俺のものだって。」
暗く、それでいて炯々と真紅の瞳を輝かせたるは混沌統べる悪魔王。かつては人の子、そして少年だったものは今や真っ直ぐに視線を合わせ、神と同じ高さにて迎え撃つ。
少年の面差しは微かな残滓のみを於いて、後は全き悪魔へと塗り潰されて。蛇の鎌首が如く上体をずるりともたげてルイへと近づくと、アスラは嘲笑と共に布告する。
「陵辱するのは許してやるが、蹂躙するのは赦さない。――どうする、ルイ・サイファー。」
神を前にして告げたるは、恐れ多くも非礼に無礼を重ねた愚言。
咎人さながらにその態度は醜く――しかしながら、媚び無き姿は美しく。
暁の君、墜ちたる明星は暫し彼を前にして凝然とし、硬直していたが――やがて、その口元に微苦笑を刻んで一言。
「これは敵わん。――悪ふざけは此処までにしておこう。」
呆気なく上がる白旗。
アスラの紅瞳が、この上ない喜色を浮かべて輝く。
血よりも赤く、紅玉のような美しさを見せて。
それは微かに残ったヒトの輝きだと、彼自身は気づかず。