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メサイアの詩

│03│ Doel Chants


痛みが引くまで、そのままにしておいた。

異世界。ともすれば自分が居た世界に繋がっていたのかもしれない、”昔の世界”。
すっかり馴染みとなった建物、銀楼閣の屋上の隅に、アスラはその身体を横たえていた。
傷を負った、猫のように。
無意識だろう、口元に微かな痛みの残る手の平を寄せ、血に塗れた傷跡を舐めていた。
瞳は最早赤くは無く、狂気も怒りもすっかり醒めた金色を、ぼんやりと暗い夜空に投げかける。
はふ、と吐息。
堕ちたとはいえ、流石は神位たる存在。あの遊び道具一式で、まさかこの体に傷を付けられるとは思わなかった。
傷を舐め、アスラは再び息を吐く。
まあもっとも、幾らか油断していた自身にも原因はあるのだが――掘り下げることは止めにしよう。事は既に起こってしまったのだし、時が戻るわけでは無いのだ。

そう、過ぎた時は戻らない。
壊れたものが、完全に元に戻らないように。
……アクマがヒトに、戻れないように。

「ふっ……ははっ」
乾いた笑いが夜を滑る。アスラは足を曲げると、その身を竦める様に丸くなった。手の平に視線を落とす。痛みも引き、傷もやっと塞がったようだが、それでも血は乾ききっていない。
磔の救世主。聖書の聖者。彼の死には多くの者が泣いたそうだが、果たして自分が死んだら涙を零してくれるものは居るだろうか。
仲魔ならば居るだろう。
けれどヒトなら?

きっと、居ない。
ドコにも居ない。
誰も、彼も。

「……ハレルヤ。」
小さく呟いたアスラの口元に、薄い笑み。それは酷薄としていて美しかったが、形だけの代物だった。

ああ、ハレルヤ。
自分を知っている人たちには知られたくないこの姿、この存在。
居なくて結構。無くて上等。
アスラは三度無意識に手の平を舐め、目を閉じる。

ツマラナイ。
神の遊びも、堕天使の戯れも。
下らない。
悪魔的享楽も、神なる慈悲も。
口の中に広がる血の味が嫌に生臭く感じる。悪魔になっても変わらないものの一つだが、今はやけに苛立って仕方が無い。
今日は雲ひとつ無いほど澄んだ夜が広がっていてそこにハッとするほど見事な満月が浮かんでおり、狂宴に相応しいのだが、滅入った気分が元に戻らない。
これはきっと、血を流しているせいだ、と考える。
そうだ、少し傷があるせいだ、と思い込む。

――だから、愚かにもヒトのように感傷的になってしまっているのだ、と。
誰に聞かれているわけでも無いのに心中で決め付けて、むずがる子供のように眉根を寄せて軽く目元を擦った。
動けない。動きたくない。
だから、いま少しばかりこの場に留まろう、と――考えた矢先のことだった。

「……。」
「……。」
それは油断だったのか。
ふと近くで空気の蠢きを感じたので何気なく目を開けてみれば、自分を見下ろしている男と目が合った。
その顔を隠すようにしている学帽は、今は無い。夜目にも溶けることの無い深い青の着物を身に付けた男は、暫し呆然とした面持ちでアスラを見詰めていたようだったが、視線を流した先で赤いものを認めた瞬間、凛とした声で叫んだ。
「――これは何事だ、阿須羅……っ!」
何の躊躇いも無く真名を喚ぶなりその場にしゃがみ込んだ男は、赤茶けた色になっているアクマの手を、これまた何の躊躇いも無く握った。
強い力ではなく、労わるように優しく。
それでいて、酷く繊細な動作で。
コチラをアクマだと分かっている男は、この時ばかりは顰め面をしておらず、形のいい柳眉を顰めて口を開く。
「……酷い傷だ。誰にやられた?」
訊ねる声が、普通に優しい。
「一体何者が、お前をこのような……うん? もう出血はしておらぬのか。」
そう呟き、ほっと安堵したその顔の柔らかなこと。

――ハレルヤ。
泣くヒトは居ないが、どうやら心配してくれるヒトは居るらしい。
アスラは目を細めると、零す吐息に苦笑を混じらせて答えた。
「少し遊び方を間違えた。――それだけだよ、ナナキ。」
口調が昔のものに――ヒトだった頃のものに戻っていたが、アスラは構わず血が生乾きのままの右手をナナキに差し出すと、困ったような笑みを見せて補足する。
「無様なアクマだろう? 笑って、いいぞ。いや、むしろ笑うところだ。」
そう自身を卑下しておどけてみるも、しかし相手は笑わなかった。
それどころか物凄い形相になり、殺気じみた光を宿した双眸をアスラに向けて叫ぶ。
「――この葛葉雷堂、傷つき伏した知人を哂う人間性など持ち合わせておらぬわ!」
このような時にふざけるでない莫迦者が、と怒鳴った雷堂は、そのまま猫のように丸くなっていたアスラの脇の下と膝裏にそれぞれ腕を差し入れると、一気に抱き上げた。
「……っ!? な、何だ。ナナキ、どうした」
「どうしたもこうしたもあるか! 我の部屋にて傷の手当てだ!」
「な…、……待て。そんなことしなくても、放っとけば治」
「――喧しい! お前の意見なぞ聞き入れぬ! 行くぞ!」
「おい、雷…ナナ……、……。」
強気なヒトの、腕の中。
珍しく戸惑うアクマの頬には、微かな朱。
少しの間、それとなく身じろいで抵抗してみたが相手はどうにも手を離さず、……放してはくれず。そのうちにアスラは観念し、疲れたように雷堂の胸に頭を凭れさせて溜息一つ、二つ。

ハレルヤ。
ヒトに怒られるアクマなんて、何の冗談だ?

ハレルヤ。
彼は自分の死に、泣いてくれるだろうか?

答えは求めない。
どうせ見つからないのだから。
願いも請わない。
どうせ叶いやしないのだから。

「俺に優しくしたこと、いつかきっと後悔するぞ。」
いつも通りの声音でそんな台詞を吐けば、廊下を歩いていた雷堂がちらりとアスラを一瞥し――そうして見せるのは、何とも強気な笑み。
「ふっ。それがどうした? 我は、我が感じたままに行動したまで。お前の命令で動いたわけではないぞ」
アスラは金色の瞳を丸くするも、浮かびかけた怯みを一瞬の苦笑で打ち消すと、何処か穏やかな声音で言い返す。
「成程。じゃあ、”その時”が来ても俺を恨むなよ――”葛葉雷堂”。」
「恨みはせん。ただ真っ直ぐにお前を殺すまでだ――”混沌王”。」
絡む視線。
刹那、走る閃光。
少しの沈黙。

――間を置いた後、互いに笑う。高らかに。
それはまるで友人同士のように。

「……っ、はは。」
揺ら揺らと揺れる温かいヒトの腕の中で、アスラは自らの両肩を抱き締めて身を竦めた。その仕草に気付いた雷堂が――見逃す筈も無く――視線を落とし、問いかける。
「如何した。何処か、痛むのか?」
台詞と共に、歩行速度が僅かに落ちるのをアスラは感じた。
苦笑。
目を開けると相手を見上げ、口端を持ち上げる。
「いや。ただ……」
「ただ?」
「これも何かの縁なのかと思ってな。」
「うん?」
良縁だなとでも言ってみたら、さてさてこの書生はどんな顔をするだろうか。
からかう材料がまた出来た。いつか、近いうちに遊んでみよう。
その気になるまではお預けにしておくけれど。

救世主にはなれなかったが、それでもこの出逢いは悪くは無いな、と唐突に考える。

ああ、救いはこれだけでいい。
この程度できっと、丁度良い。