メサイアの詩
│04│ The Elder Sign
それは唯一人を咎人に落とす為に作られた、裁きの印である。
久方振りに訪れるその部屋は、懐かしい香りで満ちていた。
「……ふう。お前は治療など要らぬと言うだろうが、化膿の心配がある故、一応の手当てはしておいたぞ。」
寝台の上、くたりと横になったアスラは傍らで話す人の声を聞き流していた。
その意識は未だ少し茫としていて、鈍い金色の瞳を目の前の”お人好し”に留めている。両手の甲に巻かれた白い包帯は清潔で、汚らしい色はすっかり取り除かれていた。
「それで、後は……まあこれも必要ないのだろうが、化膿止めの薬だ。飲むが良い、アスラ。」
目の前に差し出される、小さな包みと白湯の入った湯飲み。アスラはといえば、やはりぼんやりしていて、視線をゆっくり雷堂に向けて吐息一つ。
「必要ない。」
否定、というよりは、薬を嫌がる子供のような声音だった。その反応を予測していたのか、雷堂が呆れた顔をして眉根を顰める。
「万が一ということもあろう。良いから飲むのだ。」
「嫌だ。」
言って、気怠げに背を向ける始末。そこにいつもの狂気は無く、冷笑も無く。
今この場に於いて、雷堂の目の前に居るのは子供然としたヒト。
「好き嫌いの問題ではない。傷が悪化すれば、お前とてどうなるか分からぬのだぞ。」
「俺が嫌だと言ったら嫌なんだ。」
「……何を子供じみたことを。」
――と。
そこまで言ってから、雷堂は唐突に「ああ、そういえば”コレ”はまだ少年なのだった」と当たり前なことを思い知らされた。
混沌王。悪魔を統べる悪魔。
何よりも強い力を持った狂気の存在である彼は、元はヒトだったのだ。
さて――その今日の混沌王は、本当にどうしたのだろう?
妙に子供っぽく、実にヒトらしさが強い。
(こうして見ると本当に同輩なのだな。)
口元に苦笑を浮かべつつ、雷堂はコチラに背を向けて寝そべるアスラを眺めた。悪寒を呼ぶ気配も血の匂いすら感じさせる嘲笑もひっそりと潜めた姿は、弱っている、ということが明確に見えている。ともすれば無防備に見える危うさがあり、ちょっとした衝撃で壊れてしまいそうな脆さが窺えてしまって酷く心配させられるのだ。
――庇護欲を掻き立てられる。
彼は悪魔で、此方はヒトだというのに。
「……アスラ。薬を飲むのだ。」
寝台に腰を下ろして声を掛けるも、相手は無視を決め込んでいる。
「そら、腹を括るが良い。コチラを向け、アスラ。」
肩を軽く掴んで、揺する。子供をあやすように、緩やかに揺すった。
すれば、渋々といった様子で――しつこいな、といった表情で――アスラが、雷堂を振り返る。朧げな視線で見上げ、吐息と共に言葉を吐いた。
「お節介め。要らないって言ってるだろう。」
僅かな嫌悪が滲んでいるが、それは少年の声。雷堂の苦笑が深まる。
「何とでも言うが良い。仮宿ではあるが、此処は我が自室。お前に死なれでもしたら、我の目覚めがどうにも悪くなる。」
そんな皮肉を言ってやれば、相手は怒るどころか「ああ」と得心顔をして頷いた。
「成程。それは後味が悪い。」
「そう思うてくれるか?」
「ああ。……しょうがない、飲んでやるよ。」
珍しく素直に、雷堂の言葉に従ってみせるアスラ。緩慢な動きで雷堂のほうへと向き直ると、相手を見上げて軽く片手を差し出した。
「薬。」
「……。よもや、横臥したるその様で薬を飲むつもりではあるまいな?」
「そのつもりだけど。何だ。」
「……莫迦者が。」
今度は雷堂がうんざりした顔になる番だった。
やれ、白湯を零したらどうするとか、咽たりしたらどうなる、とか。愚痴なのか心配しているのか分かりにくい言葉を吐くと、アスラに腕を伸ばして抱き起こした。
そして、きょとんとしている彼のヒトを自分の胸元に凭れさせると、薬包を手に言う。
「此れで良い。アスラ、口を開けよ。」
「おい。何だこの体勢は。子ども扱いするな。自分で飲める。」
「喧しい。汚れを掃除するのは我なのだぞ。」
「どっちが子供だ。貸せ。」
「子供であろうが。飲め。」
「貸せ。」
「ならん。――っ、面倒だな……!」
一歩も譲らぬ喧騒に、焦れたのは雷堂。
背後からアスラの顎を掴んで上を向かせると、一瞬の隙を突いて薬を放り込んだ。
「いっ……!」
その硬直を、これ幸いと雷堂が口移しで水を飲ませて流し込んだ。
それは時間にして、数十秒ほどの出来事。