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逢魔が来たりて魔笛 02


「雷堂。」
丑込返り橋を半分渡ったところで、己が名を呼ぶ声を聞いた。
振り返った視線の先には、此方に向かって片手を挙げる人物の姿が一つ。
雷堂は、片目に走る傷のせいで、あまり視力が良いほうではない。故に、一度立ち止まりじっと目を凝らした――その次の瞬間、彼の瞳は驚愕の色に満たされることになる。

どういった手品か、なんとした技巧か。
あの特有の縞は無いようだが、あの目――肉食の獣以上の狂気を煌かせた彼の瞳。
その残酷な眼差し。狂気以上の戦慄を喚ぶ彼の微笑。
全くに隠してなど居ないその気配。だからこそ感じるこの寒気。
思わず己の肩を抱いた雷堂のその目の先で、相手の唇が何かを紡ぐのが見えた。
距離の差と雑踏が相俟って、それは聞こえない。
だが読み取れた。読み取ってしまった。

『挨拶はないのか?』
そう、言っていた。
赤い瞳が細められ、その顔に浮かんだ冷笑が、雷堂の背筋に怖気を走らせる。
そうして相手は冷ややかな笑みを浮かべたまま前に足を踏み出すと、酷くゆっくりとした足取りで此方に近づいてきた。
何故、此処に。
何故、この街に。
何時の間に。
どうして。
どうやって。
様々な疑問が脳裏を駆け巡るも、気配の接近に雷堂はすぐさま我に返った。
忘失している場合ではない。

「……っ!」
理性を取り戻した彼の書生が真っ先に行ったのは、素早く背を向け、踵を返し、一目散に逃げるという行いであった。
それは逃亡。
十四代目葛葉たるものが何を無様な――と思うだろうが、彼の少年の恐ろしさを知っているものならば誰でもこうしたくなるものだ。
業斗を同行させていなくて良かったと思いながら、雷堂は人の波間を縫い、大通りを駆け出した。
がむしゃらな疾駆はけれど流れるような動作で以って行われたが為に、醜態さは微塵も漂っていない。
道中、敢えて薄暗い裏路地を通り抜け、相手の目を撹乱させる行動をとったのは完全に己を失っていない証拠。
これを見ても、無様だと誰が思おう?
流石は葛葉十四代目だと見蕩れてしまうその動作は、正しく綺羅星。

道を進み、角を曲がり、とかく疾駆に集中する。
細い道。
裏通り。
物陰に人気はなく居るのは唯野良猫ばかり。
やがて幾らか走ったところで、雷堂はゆっくりと速度を落とした。それから緩やかに立ち止まると、さっと背後を振り返る。
通りの影、薄闇の向こうに目を凝らす。
人影、無し。
気配も……無し。
「どうにか……巻いたか?」
ふう、と一息。
額に流れる汗を拭い、そうして銀楼閣に続く道の角を曲がった時だった。

「遅いぞ。」
「なっ……!」
顔を上げた直ぐ目の前に、彼は居た。
冷笑がよく似合う異界の少年王――アスラが、悠然と其処に待ち構えて。
――いつの間に!?
雷堂は驚愕せざるを得ない。
先ほど確かめた時には、其処に人影などありはしなかった。前も後ろも確かめた。気配を探った。音を調べた。何も無かった。なのに、なのに。
気配すら掴めずに居たというのか。
存在すら悟れず、ああ――だからこそ、こうして待ち伏せされているのか。
(不覚……っ!)
だが相手に動揺は見せまい。
弱みなど握られてたまるものか。
気持ちを鎮める為、静かに息を吸い込んだ雷堂に、彼の少年――人修羅と呼ばれるものが、目を細めて喉奥で笑う。
誤魔化したつもりか? 何とも可愛いこと。――表情がそう語っていた。
「随分と面倒な道を通ってきたな。迷子にでもなったかと思った。」
「な、っ……誰が迷子か!」
「ククッ。いきり立つなよ、冗談だ。」
そして何とも艶やかで凶悪な微笑を浮かべると、雷堂に近づいて。
「まあ、久し振りの鬼ごっこは存外楽しめたぞデビルサマナー。」
「――。」
爪を立てられた気がした。
やはり逃げることなど適わなかった。

くらりと、眩暈。


◇  ◇  ◇


半分引き摺られるような形で、雷堂は街道を歩いていた。
行き先は銀楼閣。雷堂が拠点としている場所である。
自らのねぐらを案内するというこの行為は、とかく屈辱でしかなかった。
彼には、いつもデビルサマナーとしての誇りを傷つけられる。
だが、この狂王の前では一切合財の抵抗など敵わないし、何の意味もない。

「貴様……顔の隈取はどうした。」
沈黙を破り質問したのは、肩を並べて歩くこの状況が気に食わなかったからだ。
アスラは此方の肩を抱き寄せていて、それも、まるで仲の良い友人のように馴れ馴れしくするものだから、雷堂の苛立ちを募らせ、精神を消費させていた。
しかし、アスラは雷堂の苛立ちを知ってかしらずか何処吹く風。飄々と振る舞い、肩を揺すって答える。
「隈取? そんなもの、隠しているに決まってるだろう。」
(……隠形の術か?)
雷堂は僅かに眉を寄せるが、しかし詳細は訊ねない。
ああ、聞いてなどやるものか。質問の代わりに、悪態を吐く。
「……ふん。まやかしとは小賢しいことだ。」
「何だ。やっかみか?」
「皮肉に決まっているであろう!」
相手の淡々とした返答、態度に、思わず声を荒げれば、また隣で冷笑の気配。墨染めの着物をはためかせ、アスラは言う。
「格好だけでも目立つんだ。これくらいしなければ、後々が面倒臭い。」
「なれば、大人しく己の世界にだけ居ればいいものを。」
そんな悪態を吐けば、そこでアスラが雷堂を振り返った。そして肩をグイと掴んで引き寄せると、耳元に囁きひとつ。
「折角お前に逢いに来てやったんだ。そう、つれないことを言うな。」
この少年は、何とも見え透いた嘘を平気で吐く。
「……戯言を。」
完全に捕まえられるその前に雷堂は腕を振り払うと、さっさと一人で歩き出した。
背後で、声。
「ハハッ! 照れるなよ、ナナキ。」
此奴に真名を教えたのがそもそもの間違いだ、失態だ、と。
過去の過ちを悔やみながら、銀楼閣の道のりを辿る。
アスラと共に。
否応も無しに、二人きりで。


◇  ◇  ◇


事務室の扉が開いたので、男と黒猫は顔を上げた。
そして、いつものように帰宅者を出迎えようと声を掛け――ようとしたところで、その動きは止まった。
酷く不機嫌な書生の隣に、見知らぬ少年が一人。墨染めの着物をきっちりと着こなし、胸の前で両腕を組んでいる姿はまるで金持ちの御偉い様――若しくは、何処かの王のよう。
しかし彼の相貌と比べると、その気配はどうにも不釣合だった。
鳴海は目を丸くし、雷堂と少年とに視線を走らせる。

彼は一体――「何」だ?
惑う鳴海のその隣では、同じように業斗が硬直している。
拙い奴が来たものだ、というように顔を顰めているところを見ると、どうも唯ならぬ存在であるらしい。
そんな彼らの反応も余所に、少年は何事も無く部屋に踏み込むと、よく通る声で言った。
「お邪魔します。」
それは名の変哲もない挨拶だった。
少年は真っ直ぐに歩いてくると、ソファに腰を下ろして足を組んだ。それから、そこで初めて思い出したかのように背後を振り返り、言う。
「雷堂、お茶。それと甘いもの。」
「……ふん。」
驚いたことに、雷堂が少年の言葉に従った。
憮然としたままではあったが、素直に――それとも渋々?――水場へ向かった雷堂を見て、業斗と鳴海が互いに顔を見合わせるのも仕方なきこと。
「なあ、雷堂……? その子は……一体?」
お茶一式を手に戻ってきた雷堂に、鳴海が投げかけたのは当然の疑問。
茶の用意をする為か、雷堂は背を向けたままで答える。
「……。唯の、古馴染みだ。」
答える声に強張り。
「古馴染みって……」
鳴海が尚も言いかけようとするのを、今度は黒猫――業斗が、会話の続きを攫い上げた。

「いつ此処にやって来た。」
そう声を掛けた相手は、己の書生――ではなく、ソファで寛いでいる少年に対してだった。
警戒の姿勢を隠さぬままに近寄ってきた業斗を、少年は冷笑で迎えて答える。
「何時間か前だ。目的はナナキに逢いに。……なぁ、ナナキ?」
容易く真名を口にして雷堂を振り返った少年の態度に、鳴海がピクリと片眉を上げた。
「……雷堂、の……友達、なのか?」
鳴海は問い掛けを投げる。
が、しかし書生は答えない。
茶を入れる作業に没頭していて聞こえない、という素振りで無関心を――いや、完全に傍観者を決め込んでいるようだ。
何を隠している?
「なあ、雷堂ってば。この子は――」
「――貴様には関係の無いことだ。」
こぽこぽ、と茶を入れる音に、苛立ちを抑えた低い声が混じった。
その反応に、鳴海がますます顔を顰めて雷堂の背を睨みつける。

一触即発――になりかけた空気を切り裂いたのは、何よりも冷たく、そして何よりもよく通る少年の声。

「ナナキ。お茶はまだか?」
「……今、持っていく。もう少し待て。」
雷堂が疲れたような声で言えば、アスラが子供のように笑った。

出逢ったが最後、逃げ切れぬ運命