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And Enchant

逢魔が来たりて魔笛 03


その日、鳴海は外に出掛けず事務社の中に居た。
出掛けたくとも、そうは出来ない――そんな気分に到底ならない理由があった。
原因は、ひとつ。
ああ、理由など一つきりしかない。

――あの少年だ。
最早その記憶に焼きついてしまったのか、名前を口にするまでも無くその姿と声が思い浮かぶのが恐ろしい。
雷堂と同じ年頃であろうと思われる少年は、外見こそ普通に見えるのだが、しかしその気配がどうにも普通ではなかった。
初めは、何かしらの異種業……例えば雷堂のようなデビルサマナー――などに就いた者ではないかと思ったのだが、生温かった。少年の浮かべる笑みの異質さに、その妖しさに、考えが甘かったことを知る。雷堂と業斗がこの少年を必要以上に警戒しているのが、嫌でも分かる気がした。
「警戒」と言えば体裁は良いが、本当は何かを懸念しているような――もう少し正直に言わせてもらうと、彼らは「怯えている」のだと思う。
――何に?
勿論、この「少年」に、だ。
その恐怖が伝染した、というわけでもないのだろうが――そう思いたい――鳴海自身もまた、次第に少年のことが気になりはじめていた。
八咫烏に連絡を入れておくべきか?
それとも、鴉の使者に手紙でも出しておくべきか?
面倒事になる前に、予防線のひとつでも張っておくべきだろうか。
そんなことを、鳴海は夜の事務室にて考えていた。
その視線の先で、ふと何かが揺れるのが見えてハッとする。
(……? なんだ?)
見れば入り口、戸が僅かに開いていた。
閉め忘れたのかと思い、腰を上げて立ち上がりかけた――その傍で、声がした。

「こんばんは。」
目の前のソファーに、例の少年――アスラが居た。
どうやって。
いつの間に。
疑問よりも警戒、警戒よりも恐怖が身裡を駆け巡る。
中腰のまま警戒態勢に入れば、その敵意を感じたのかアスラが笑った。
静かな室内にくつくつと笑う声を響かせて、少年はさり気無く告げる。
「まだ何にもしていない。」
「どうだか……それが嘘じゃないって証拠はあるかい?」
「貴方が”視える”ものじゃないさ。だから、証拠になりやしない。」
アスラが肩を竦め、苦笑する。
まるで聞き分けの無い子供を諌めるような振る舞いに、鳴海の手は自然と机の抽斗にと伸びていた。きい、と抽斗が音を立てるものの、それは本当に微かな音で、この距離、常人には聞こえない――筈だった。
そうして黒鉄に鳴海の指先が触れた刹那。
酷く冷たいアスラの声が飛んだ。

「――その下らないモノを仕舞え。馬鹿な行動が引き起こす代償は、お前の命だぞ。」
それは静かにして冷酷なる忠告。
自分より一回りは下であろう少年のその言葉は、冗談にしてはどうにも笑い飛ばせず、また無視できない圧力を以ってして鳴海の動きを止めた。
血に濡れたような赤い瞳を鳴海に向けて見詰めるその表情に浮かんでいるのは嘲弄でも蔑笑でもなく、ただただ澄み切った――殺意。
「……。」
こめかみを流れる汗を意識する。
どくり、どくりと鳴る心臓は怯えている気がした。
鳴海は、ごくりと生唾を飲むと、取り出そうとした銃身からそっと手を離し、ゆっくりと抽斗を閉める他無かった。
呼吸の震えを押し隠しながら銃を仕舞いこんだ鳴海に、ソファーの上の少年がそれで良いとばかりに、くっくと笑った。
「鴉の狗は意外に聞き分がいい。」
ぎくりとした鳴海に、向けられるは紅の瞳。

「過去を捨て、未来は求めず、現在に横たわる。」
戦慄く男を余所に、少年は歌うように言葉を繋げた。

何を言っている?
何を……知っている?

「ククッ。成程。――同情する余地が無い。」
鳴海の背筋を、ぞくりとしたものが走る。相手に理解させようとして吐かれたものではなかったが、それは確実に鳴海のことを指しているのだろう。
呪詛に似た言葉を口にして笑う少年を前にして、鳴海は言葉を失い立ち尽くす。
少年の姿をしているものの、これはヒトではない。
ぐ、と唇を噛んだ鳴海に、気づいた少年――アスラが、唇を吊り上げる。

「たかが言葉の羅列にそう怯えるなよ、探偵さん。」
笑いながら足を組んだ拍子に、着物の裾の合わせ目がするりと割れた。そこから惜しげも無く生身の足が覗くが、彼は全く気にせずに言葉を紡ぐ。
「鴉の使となる狐は狗に食いつかれるとも、尾を切り捨てても前に走る、か。……何だか此処の未来は面倒そうだ。」
其処まで言って嘲笑ったアスラに、流石の鳴海も怒りを覚える。自分のことはともかく、雷堂が護る世界を莫迦にされて黙っていられるほど無関心ではいられなかった。
「――それは予言かい、悪魔少年君。」
「ただの戯言さ、蝙蝠探偵さん。」
鳴海の皮肉も意に介さず、逆にアスラは哂いながらそれに応じ返して見せた。
鳴海は堪らず眉を顰め、吐き捨てる。
「お前は、どうにも不愉快だな。」
「ヒトは得体の知れないものに恐怖する。別に恥じ入ることじゃあない。」
「……。」
「探偵さん、名前は?」
「……雷堂から聞いてるんじゃないのか。」
「聞いてるけど、こういうのは本人の口から明かされるべきだ。」
「ドアに掛かった表札を見てないのか?」
「見た。――それが?」
「……。」
「……。」

無言の対峙。
沈黙が続く。
かち、こちと時計の針が時間を刻む。
そのまま相手を睨みつけていれば、ふと妙な感覚が鳴海を襲った。

たゆたゆと水の中を漂う浮遊感。
ふわふわと何かが抜け出ていく離脱感。
じわじわと何かが犯されていく。
――魂が浸蝕されるような不快感がした。

結局、先に目を逸らしたのは鳴海のほうだった。
顰め面で、歯噛みし、鳴海が願わずともその口から吐き出るは相手の望む答え。

「……鳴海、だ。」
「ナルミか。」
アスラが復唱し、薄い笑みを口元に浮かべた。
それから何故かふっつりと黙り込んだので、これで少しは気が楽になると思った鳴海は、椅子に座ろうと身を屈めた。
それに併せるかのようにして、突如アスラがクスクスと笑い出したものだから堪らない。
鳴海が怪訝そうな目を向ければ、相手は笑いながら視線を向けて言葉を紡ぐ。
「三文字が。」
「三文字が?」
「多い。」
「……何だって?」
「ああ。名前だ。字数。ナナキに、ナルミに、そして俺の名。全部、三文字だ。」
「……それがどうかしたのか?」
「どうもしない。ただ――」
そこで、ふっと表情を緩めて。

「同じだから、少し、嬉しくなった。」
そう答えて笑ったアスラの表情には、あの冷ややかさも嘲りも無かった
純粋な、そう、まるでヒトのような笑い方に、鳴海は我知らず見蕩れてしまう。
それと同時に、得体の知れぬ不安感に陥るのを感じた。
赤い瞳は血に濡れたばかりのように美しく、それでいて禍々しいものである。
なのに、少年が浮かべている微笑はどうにも無垢で。

――ああ、これは狂気の塊だ。
飲み込まれかける己に気づいた鳴海が露骨に視線を逸らせば、目の前の相手がそれに気づいてククッと笑った。
そして、ひっそりと呟く。

「別に獲って食ったりなんかしないのに。」
分かるもんか。
言い返す代わりに鳴海は黙って煙草を咥え、火をつけた。
息を吸い、煙をふうと吐き出せば、紫煙の向こうで艶然と微笑む魔物がひとり。
赤い瞳はやはり妙に焼きついて。
鳴海はひたすら煙草を吸い続け、とにかく見えない振りを決め込むのだった。

[ 緩やかに誘う闇 ]