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Lie Rack Lier

逢魔が来たりて魔笛 05


満月。
月の魔力が一番強く、隠された狂気が一番深くなる夜。
冷たい寝台の上。圧し掛かるは禍々しき悪魔。

「……っ、ふ……っ」
声を上げてなるものかと何時も何時も唇を噛み締めて耐えようとするのだが、隙間より零れてしまう音だけはどうにも出来ない。
肌を撫で回していた手が此方の手を絡め捕り、その爪が手の平を柔らかく引っ掻いた。
走る疼痛。思わずビクリと反応してしまえば、耳元でクスクス笑う声。
「もう諦めて声を出してしまえよ。我慢など無駄だぞ……雷堂。」
すぐ耳元で囁かれる声は何処までも暗く、果てしない狂気を孕んでいる。
返事をすれば、忽ちのうちに取り込まれるだろう。雷堂は天井だけを見上げて押し黙り、せめてもの抵抗をしてみせるのだが、しかし相手はそれを許さない。
彼の視界、ぐ、と顔を近づけて。
「頑愚め。俺から逃げられるわけ無いだろう。」
「グッ……あ!」
低い笑い声と共に狂爪が体に食い込み、赤い瞳が心を捕まえてこようとする。
血の色。真紅とはよく言ったものだ。
正に辛苦を与える存在。
人の姿をした悪魔の力を持つ者。
赤き世界を統べる混沌王。

彼の少年の名は、アスラ。
かつては普通の人間だったと聞くが、何処までが真実なのか――そんなものは、きっと本人にしか分からない。


◇  ◇  ◇


手が、首筋から胸元へ滑り落ちてくる。
それも、指ではなくその爪先で。
しかも、撫でるのではなく引っ掻くようにして。
堪らず雷堂が身を捻って不快感を表せば、手の主が喉奥で哂う。
「折角労わってやってるのに。往生際が悪い。」
「戯、言、をっ!」
囁く声はとかく子供のように無邪気だが、けれど仕掛けている行為には子供特有の残酷さを混じらせてくるので非常に始末が悪い。
「……この、不躾なる行動、の……、くっ……何処に労わりがあるかっ!」
ぎりと眦を吊り上げて睨みつけ、低い声で凄んでみせるもこの少年の前では効果も無い。
悪魔を使役するその継名。しかし、雷堂の立場はすっかり覆されてしまっていた。

なんという屈辱、そして続く陵辱。
月明かりだけが唯一の光源である室内の中で、雷堂は相手と睨み合う。
相手からの不意打ちには、驚かない。こんなものは、この世界に於いてすっかり慣れた日常の恒常だ。ただ逃げられぬことを自覚させられるだけの、凶行。
対峙する薄闇の中。
押し倒されているが、それでも心だけは押し負けぬといった気迫で殺気をぶつけてくるその姿を、相手はどう思ったのだろう。
不意に、くくっと。
相手――アスラが、笑った。
愛しいものでも見つめるように目を細めると、柔らかい声で囁く。
「そんな顔も出来るんじゃないか。」
冷たい手が雷堂の頬を撫でたが、猫のように引っ込めているのか、肉に爪が食い込んでくることは無かった。
見つめる瞳に冷酷さは窺えず、その声は艶やかで甘い。

「良いな。そういう顔も――好きだ。」
蜜の滴り。今なら反撃が出来るのだろう……しかし、雷堂は己の殺意が霧散していることを悟っていた。
この悪魔は時折、こうして妙に人間じみた行動をとってくる。
雷堂の怒りを殺ぎ、酷く戸惑わせ、反撃と言う概念を失わせてくるそれは正しく悪魔の姦計なのだろう。
そのせいか、アスラのことが益々分からなくなり雷堂は不可解のままに混乱する。

悪魔ならば、悪魔らしく在れば良い。
ずっと酷くあれば良いと、いつも思う。
事実、この少年は冷酷で、冷淡だ。
嗜虐を好むのもあってか、その性格などは鳴海以上に性質が悪く、とにかく酷い。
だから、こんな存在を理解する心算など雷堂には毛頭無かった。

ああ、理解などするものか。してやるものか。
これは認めてはいけないものだ。
ああ、認めてなどやるものか。
そう考えているのに、決め込んでいるのに……何故だろう、このようにしてヒトを「装う」アスラを見ると、どうにも調子が狂ってしまっていけなくなる。此方を覗き込む赤に意識が飲み込まれてしまうのを恐れて顔を背けていれば、突如グイと顎を掴まれた。
すれば、必然的に――否応も無しに視線が合わされる。
「良いからとっとと俺に委ねてしまえ。」
赤い瞳を優美に細めたアスラが雷堂に囁きかけるは、甘言。
「快楽を保証してやるよ、雷堂。それなら安心できるだろう?」
「くっ……誰が! そんな、もの……など――っ!」
「心配するな。鳴海以上のものを与えてやるさ。ああ、それこそ――狂うくらいのを、な。」
その台詞に雷堂はぞっとしたが、果たしてそれは恐怖の為か、それとも期待の為か。
――自分のことながら、後者でないことを祈りたい。


◇  ◇  ◇


「雷堂のマガツヒは美味いな。」
囁いて。
首筋を甘く噛む動作に、戸惑う。
「それに、体温が高い。……良いなぁ。凍える心配が無くて。」
呟いて。
嬉しそうに唇を重ねてくる仕草に、困惑する。
「んっ……く、う……っ」
どうして自分はアスラの頭を抱え込んでいるのだろう。
どうしてその髪に指を通して、優しく梳いてやっているのだろう。
解らない。
分からなくなる。
「痛くは無いだろう? 当たり前さ。約束を守っているのだからな。」
「あ、ぁ……っは。」
狂ってしまう――いや、既に狂わされているのか。
アスラが肌を舐める度に、軽く噛み付く度に、ゆるゆると力が抜けていく。
こちらの意思など尊重していない行為は鳴海と同じであるのだが、この緩やかな快楽だけが全くに違っていた。
「力が抜けてきたな。それで良い。……くくっ。ご褒美だ、ナナキ。」
「――あっ! ん、ん……ふ、あぁっ」
身体の奥を探る指が妖しく蠢いたかと思うと、深い口付けが振ってきた。
進む侵食。
喰われる、とはこういうことを言うのか。

「貴様は我に、何を――……一体何を望んでいるのだ、阿須羅。」
ともすれば失いかける意識の中で質問を投げれば、下腹部に舌を這わせていたアスラが顔を上げた。ずるりと上体を伸ばして距離を詰めると、ふっと笑って。
「……お前さ、ナナキ。」
真名をなぞり上げた声は、その時ばかりは本当に優しいものだった。
「お前が傍に在れば、この空寂も無くなるかもしれない。」
見つめる瞳には狂気など欠片も無く、笑みにはあの妙な人間らしさが混じっている。

悪魔がヒトに変わる。
いいや……ヒトが悪魔に成り代わったものだったか、コレは。
ああ、そうだとも。
信じるものか。
この「悪魔」は、息をするようにとびきりの嘘を吐く。
ああ、だからこそ。
信じてなどやるものか。
ヒトの姿で欺いて、油断した此方を悪魔の力で引き裂くのだ。
雷堂は――ナナキは、認めなかった。
アスラの言葉を。行動を。
隠された真意など読み取ることもせず、ただ顔を顰め、目を逸らし、吐き捨てるのは拒絶。

「下らぬことを。」
すると、雷堂の頬に触れていた手が静かに離れた。その際、指先が一度、ついと雷堂の唇をなぞりあげたので、雷堂はハッと相手を見返した。
何気なく見上げたその先、月光に照らされていたのは悪魔ではなく。
「……下らない、か。」
少しだけ泣きそうな目をした子供が、其処に居た。

……騙されるものか。
声を掛けずに押し黙り、そうして相手の反応を窺っていれば、視界の端で、アスラが――悪魔が、哂うのが見えた。
ククッと含み笑う声。

「ああ。――嘘だよ、雷堂。」
赤い瞳に再び狂気が宿るのを見て、雷堂は、これでいい、と目を閉じる。

そうだ、そうなのだ。
悪魔は悪魔らしく在ればいい。
ヒトになどなってみせなくてもいい。
騙されてやる、幾らでも。
欺かれてやる、気の済むまで。

満月の夜。
寝台の上。
そうしていつも、彼らは互いに嘘を吐く。
真実を見詰めず、探さず、気づかない振りをして。

嘘だけを重ね、身体を重ねるその関係は、何と呼べばいいのだろう。

[ とびきり優しく嘘を吐く狂気 ]