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Roughing Beast

逢魔が来たりて魔笛 10


鳴海事務社。
銀楼閣の屋上に”それ”は居た。

踏査にもひと段落が着いたその日、事務者社の片隅で今までの行動を書類に纏めていたのだが、不意に何かの気配を感じて腕が止まる。
「……これは――?」
それはどうにも取りとめようが無い気配だった。雷堂は正体を探ろうと焦点を絞るのだが、寸手のところで擦り抜けてしまって上手くいかない。
「面妖な。」
途切れる集中力。苛立つ精神。報告書を書いていた手はすっかり止まっている。このようなものを見つけてしまっては、仕事など出来ようも無かった。
「……。調べろ、ということか。」
雷堂は溜息と共に席を立つと、簡易な武装ながらもしっかりと刀を持って、現場へと駆けつけることにした。
その気配は掴めなかったが、辿ることは出来た。まるでついて来いとでも言うように。
「む……」
辛うじて辿れるその靄のような痕跡は、屋上へと続いているようだった。
雷堂が、眉を顰める。少し嫌な予感がした。
だが、途中で踵を返すつもりは無い。――それではまるで”あれ”から逃げるように見えるではないか。
可能な限り消せるものを消して忍び寄り、一度息を整えた後で屋上へと続く扉を開けた。

雷堂は、ああと溜息を吐く。
やはりというか、銀楼閣の屋上、隅の縁に”それ”が居た。


◇  ◇  ◇


屋上から見える夕焼け。金赤の光が、街を美しくも妖しい黄昏色に染めている。
そこへ、かつりと響いた靴音に、少年は目を細めた。きっと、声を掛けるのが嫌で、わざと聞こえるようにしたのだろう。子供じみた抵抗だ。せめてもの嫌がらせ、というわけか。
少年は雷堂の意図に気付いた上で振り返り、そうして戸口付近に立つ書生の姿を認めると、いつもの妖しげな微笑で出迎える。

「どうした、雷堂。」
「……っ!」
名を呼ばれた書生は、しかし腰に下げた刀に手を掛けたまま相手を睨みつけていた。
憮然とした表情で舌打ちし、返すのは微笑みではなく嫌悪。
「やはり貴様か――アスラ!」
そう言って、ぎり、と歯噛みする雷堂を見て、アスラはわざとらしく肩を竦めた。
いつもこうだ。そろそろ挨拶の一つくらいまともに返してもよさそうなのだが、この書生は本当に学習してくれない。
よもや挨拶を知らぬわけでもあるまいに、雷堂が返してくるものといえば、この剥き出しの敵意だ。警告以上に鋭く、殺意には辛うじて至らぬ感情。
しかし、距離は詰めてこない。むしろ、此方の出方を待っている。
慎重――と言えばそれまでだが、ここまで露骨過ぎると別な名詞を付けたくなる。先見に対して警戒しているのだろうが、これでは危惧しているというよりも――。
「……お前、実は臆病なのか?」
「――我を侮辱するか、貴様っ!」
皮肉一歩手前の軽口を吐いて見せれば、雷堂が親指で刀を僅かに押し上げた。
ああ、噛み付く元気はあるようだ。
躊躇いが一転して怒気に変わったのを感じ、アスラは途端に面白くなる。
噛み癖のある子犬。いや、雷堂の場合は猫のほうがより”らしい”――そう考えたら、反抗的な態度も気にならなくなった。
(――良いな。猫は……好きだ。)
「……?」
喉奥で笑うなり目を細めたアスラに、懸念を抱いた雷堂が後ろへ僅かに下がって距離をとったのは、実に懸命な判断だろう。
しかし、その反応すらもアスラには面白かったようで、ますます笑みを深める材料にしかならなかったのが悔しいところだが。
「ふっ。」
哄笑を敢えて失笑に止めておいて、アスラは雷堂に向かって抗議を一つ。
「まだ何もしていないのに、その態度は如何なものかと思うがなぁ?」
「……ほざけ。貴様と馴れ合う気など毛頭無いわ!」
「相変わらず態度の悪い書生だ。」
悲しげな声を出して大仰に溜息を吐いてみせるも、その貌に浮かぶのはこのやりとりを愉しんでいる喜悦ばかり。
この少年は、とかく雷堂の神経を逆撫でする。雰囲気が、どことなく鳴海と似ているせいかもしれないが――。

「一緒にするなよ。」
「……っ!」
アスラの一言に、雷堂が息を飲む。
――まさか心を読んだのか!?
目を瞠り、驚愕の様を隠さない――ああ、なんと素直な――雷堂を見て、アスラは哂う。
「鳴海より、俺の方がずっと良い。」
「……?」
何が”良い”のか、と雷堂が訝しげに眉根を顰めれば、相手は三日月形の笑みを浮かべて答えを告げた。

「――狂気が。」
「――っ!?」
なんてことを、さらりと。
おかしげに、愉快気に。
言った相手のその顔には、誘いかけるような狂笑があった。

刀を握る手が知らず震えるのは、その思考が、いいや存在が全く理解出来ないせいだ。
これとは価値観が違う。
言葉が通じるから意思も通じる?
相違の見解?
意見の相違?

――そんなものは糞喰らえ。
理解など全くにできるものか!

「……それで、此処へは何用で来たのだ。」
刀を収めた雷堂が質問したのは、相手の誘いに乗らない意思表示であった。呆気無く爪を引っ込めた相手にアスラは目を細めたが、揶揄はせずに答えを返す。
「目的か? んー……いきぬき、だな。」
その言葉に、今度は雷堂が哂ってみせる。
「ハッ! 休息だと? その力を捨てれば何時でも叶うものではないのか。」
すれば、アスラが首を傾げて雷堂を見つめた。
眉を僅かに顰めている。一瞬、気分でも害したのか――そうであれば雷堂としてはこの上なく気分が良いのだが――。
しかし、そうではなかった。
何故なら、アスラは口元に完全な嘲弄の笑みを浮かべてこう言ったのだから。

「相変わらず可愛らしいくらいに浅薄だな、お前は。」
「何ッ……!」
睨み返した相手の顔に走る隈取を、赤い光が縁取るのが見えた。
金色の瞳が紅に染まり、黄昏よりも昏い気配が周囲に満ちていく。
――毒蛇の尾を踏んだのだと気付くも、遅かった。
「ぐ、……。」
気圧されて唇を噛む雷堂にするりと近づいて、その深遠は夜よりも尚暗い声で語りかけてくる。
「聞け。息抜き、じゃない。生き抜きだ。小腹が空いたから此処へ来たんだ。」
「生き……? 何だと?」
雷堂の表情が、困惑に歪んだ。思考が、不可解の波に乱される。
アスラは戸惑う書生に邪悪な微笑みを向けると、すいと手を差し伸べて言った。

「また、お前を喰わせろ……ナナキ。」
蟲惑的な声は、まるで耳元で囁かれたような気がした。
「……っ、に、を……」
強い眩暈が雷堂を襲う。いつしか、刀から手が離れていた。
身体が、相手に向かって勝手に近づいていく。
一歩ずつ、ゆっくりと。

それは洗脳に似ていた。
操り人形が糸に繰られる様に、ふらふらと足が前に進む。
「そうだ――コッチへ。」
「……。」
差し伸べる手に触れようと、己の手が持ち上がり――しかしそれは、指先が触れた瞬間に消失した。完全な浸食ではなかったようだ。

「――っ……きっ……貴様ああっ――……!」
噛み締める唇から血を滲ませて、雷堂が低い声で吠えた。
走る剣閃。今度は手加減など無く。
「おっと。」
あと一歩、というところでどうにか逃れたる書生はアスラに一撃を放った後、すぐさま後ろへ飛び退さった。
「へぇ。意外に耐性があるんだなぁ。」
難なく攻撃をかわしたアスラが苦笑する。目の前にはいまや、刀に手を掛けて身構える完全な獣が居た。
敵愾心を殺気に変えて。
唇を赤く色づかせたまま。
それが物語るのは「失敗」。
けれども、アスラは特に残念がった様子も無く冷笑してみせただけだった。
「抵抗したか? 天邪鬼め。本当はまた抱いて欲しかったくせに。」
「戯言を抜かすでない!誰が――誰が貴様なぞにっ!」
「じゃあ、ナナキは俺に何を望む?」
「――くたばれ!」
雷堂が率直なる殺意をぶつければ、アスラは喉を仰け反らせてアハハと哂った。
「ああ、素直だな。良い。お前のそういうところは、本当に面白い。」
そう言うと、踊るような足取りで屋上の縁へと歩いていく。
「ニンゲンらしい叫びだ。お前らしい願いだ。」
いつもの場所。
少年はその端まで辿り着くと、肩越しに振り返って笑う。

「――ならば、その通りに。」
雷堂を見詰めたまま、アスラは自らの身体を背後に広がる街があるほうへ――倒した。

「なっ……阿須羅!」
雷堂は思わず真名を叫び、反射的に駆け出した。
傾いでいく相手に手を伸ばし、その腕を掴もうとしたが。

「ほうら……やっぱり天邪鬼だ。」
そんな言葉と共に触れた指先は払われ、アスラの姿は雷堂の目の前で消えてしまった。
景色に溶けるように、黄昏に解かされるように、緩やかに――消えて。
気づけば、雷堂はその場に座り込んでいた。

「何故――何故、こんな……! ……アスラっっ!」
悲鳴に似た声で唸ると、雷堂は屋上の縁より身を乗り出して眼下を見た。
赤いものは無かった。
何も無かった。
血溜まりも、飛び散った肉片も無く。ただ其処には、何の変哲も無い街並みばかりがあり、いつもどおりの帝都があった。

「……これ、は?」
夢では無い。自分は確かに覚醒している。
ふと顔を上げれば、其処にはまだ黄昏があった。
金色の光。
神々しくもあり、何処か禍々しくもあり。
そこで雷堂は”仕組み”を知る。
ああ、そういえばアレは混沌王だった。――境界線を飛んでやってくる、異世界の存在。
雷堂は顔を顰めて呟く。

「全く……とんだ悪童が!」
それでも、両手に視線を落とせば自然と安堵の溜息が出た。
彼の死が真の現実でないことに少しだけ喜んだ己を、雷堂は自覚していない。
「貴様の戯言には付き合おう。だが、こんな莫迦げた――どうにも心臓に悪い悪戯なぞはしてくれるな……命を粗末にするな、阿須羅。」
屋上より立ち去り際、零したそれは本心であろうか。

「――やはり素直でない。」

背後でからかう声を聞いたような気がしたが、雷堂は決して振り返らず、黙って重い扉を叩きつけるように閉めた。

[ 哂い落ちるもの ]